西原九兵衛(九兵衛地蔵)
江戸後期の天保8年(1837)、「天保の飢饉」さなかの飯山藩では、重税にあえぐ百姓らが年貢減免を求めて「飯山騒動」(「浅野騒動」)を起こします。百姓らは豪農の屋敷などを打ちこわしながら城下に迫りますが、藩命を受けて交渉に当たった僧侶らの説得で解散します。この一揆では信濃国水内郡浅野村(今の長野県長野市)の豪農・西原九兵衛も打ちこわしの被害に遭っていますが、拷問の末に一揆の頭取であると白状させられ、天保10年(1839)1月26日に獄門に処せられました。かつての処刑場近くの「九兵衛地蔵」は、この西原九兵衛の供養のために建てられたといわれています。
義民伝承の内容と背景
江戸後期の信濃国上水内郡浅野村(今の長野県長野市)は飯山藩領となっていましたが、藩主・本多豊後守助賢が幕府若年寄の要職にあったために出費がかさみ、全国的な「天保の飢饉」のさなかでの暴風雨による不作と米価騰貴もあいまって、多くの百姓が重税にあえいでいました。
これに加えて、浅野村庄屋の唯右衛門が村の経費を私的に使い込んで負債を重ねた疑惑が持ち上がり、次郎兵衛や仙右衛門ら小前百姓からの追及で辞職に追い込まれる村方騒動も発生していました。
天保8年(1837)12月23日には蜂起を促す落とし文が周辺の村々にもたらされ、赤塩村(今の上水内郡飯綱町)の八幡原で法螺貝が鳴ったのを合図に、これらの村々の百姓が続々と下水内郡蓮村(今の飯山市)の五位野原まで押し寄せます。
百姓たちは年貢減免などを求め、豪農の屋敷などを打ちこわしながら城下に迫りますが、藩命を受けて騎馬で駆けつけた僧侶らが「願いの趣きは聞き届けたり」と説得に当たったために解散します。
しかし、願いを聞き届けるとの約束に反し、藩はすぐさま首謀者の探索をはじめ、さきの次郎兵衛や仙右衛門をはじめとする百姓多数を捕らえて拷問にかけ、白状を引き出そうとしました。
一方で、浅野村きっての豪農で藩御用達として苗字帯刀を許されていた西原九兵衛も打ちこわしの被害に遭っていますが、なぜか一揆の首謀者の嫌疑を受けて牢に入れられ、80貫(約300キログラム)の石抱きの拷問の末に「私頭取致候」と白状させられてしまいます。
この間の経緯を記した西原九兵衛の獄中からの手紙が現在も残されていますが、それによれば、次(治)郎兵衛や仙(専)右衛門が自分たちの罪を軽くするために九兵衛の手下として一揆を起こしたと虚偽の自白をしたらしいこと、九兵衛自身も拷問により仕方なく自白して「無実之罪」に陥れられ、親や先祖に申し訳なく「残念」と思っていることなどが書かれています。
九兵衛の家族親類一同も、「無実之罪之義は明ラカニ御座候」として、上野寛永寺林光院を通じた江戸藩邸への嘆願や評定所目安箱への箱訴などの赦免運動に奔走しますが、その努力が実を結ぶことはありませんでした。
天保10年(1839)1月26日朝六ツ時(6時頃)、56歳の西原九兵衛は千曲川べりの刑場で打首となり、その首は獄門として3日にわたって晒され、次郎兵衛や仙右衛門も永牢となりました。
その際の判決書によれば、九兵衛は浅野村前庄屋の唯右衛門がつくった負債の損失補填金を出し渋り、騒動が起きれば先延ばしにできると思い、次郎兵衛や仙右衛門と相談して他の村々を巻き込んで「徒党強訴」に及んだとされており、藩の御重恩を蒙りながら私欲に走ったことは「別て不届至極」であるから獄門に行うとされています。
九兵衛の処刑については、次郎兵衛らの口書(供述調書)どおり九兵衛が一揆の黒幕として暗躍していたという説のほか、天保9年の九兵衛逮捕の際に役人が借金の証文を没収していることを理由に、藩及び家中が九兵衛から受けた借金を一挙に帳消しにしようとして冤罪をでっち上げたという説まであります。
いずれにしても入牢した時点で西原九兵衛を一揆の頭取に仕立て上げる筋書きはできており、九兵衛も処刑に先立って「清濁の分ぬ娑婆をけふ立て弥陀之浄土に清める宇れしさ」という、正邪曲直の区別もままならない世の中への無念をにじませた辞世の句を詠むなどしています。
かつての飯山藩処刑場近くの街道沿いには「九兵衛地蔵」と呼ばれる地蔵尊がありますが、これは西原九兵衛の供養のために天保11年(1840)3月に建てられたものといわれます。
九兵衛地蔵へのアクセス
名称
- 九兵衛地蔵 [参考リンク]
場所
- 長野県飯山市静間地内
(この地図の緯度・経度:36.8408, 138.3601) 備考
-
「九兵衛地蔵」は、市道の北畑交差点から北東に50メートルほど進んだ道路沿いに建てられています。地蔵尊の脇には由来を記した案内板があります。
「飯山藩処刑場跡」(36.8421,138.3627)は千曲川沿いにあり、綱切橋西端の土手の上に碑が建っています。
参考文献
- 近世の民衆と都市―幕藩制国家の構造
- 新編信濃史料叢書〈第19巻〉 (1977年)
- 実説信州飯山騒動―西原九兵衛とその子亦庵の記録 (1972年)
- 編年 百姓一揆史料集成14
- 『下水内郡誌』(長野県下水内郡教育会編 長野県下水内郡教育会、1912年)
- 『長野県史』通史編第6巻 (近世3)(長野県編 長野県史刊行会、1989年)
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