松木神社(松木庄左衛門と小浜藩領承応元年一揆)

松木神社 義民の史跡
大豆年貢のため犠牲となった若き庄屋を祀る

小浜藩領では庄屋らが大豆年貢の引下げを繰り返し訴願するものの聞き入れられず、ついに慶安元年(1648)、若狭国遠敷郡新道村(今の福井県三方上中郡若狭町)庄屋・松木庄左衛門をはじめとする惣代が捕縛されました。拷問に屈しなかった庄左衛門は承応元年(1652)に日笠川原で磔刑に処せられますが、年貢引下げの要求は認められました。近代に入ると自由民権運動のなかで脚光を浴び、彼を祀る「松木神社」も創建されています。

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義民伝承の内容と背景

小浜藩では大豆1俵につき4斗の年貢を徴収していましたが、小浜城の築城で費用が嵩んだ京極高次の時代に4斗5升に引き上げられ、武蔵国からの転封で寛永11年(1634)に藩主となった酒井忠勝もこの税率を踏襲します。

そこで領内の庄屋らは寛永17年(1640)に遠敷大明神(今の若狭彦神社又は若狭姫神社)で会合し、当時16歳の新道村庄屋・松木庄左衛門らを惣代に選ぶと、大豆年貢の4斗への引下げを求めて藩に訴願することを決めました。

松木庄左衛門らは以後9年近くも年貢引下げの訴願を行うものの聞き入れられず、ついに慶安元年(1648)には強訴の罪で惣代20人余りが一斉に捕縛されて牢につながれてしまいます。
惣代らは藩の厳しい吟味によって次々に脱落し、最後に残った松木庄左衛門も、承応元年(1652)5月16日、日笠川原において磔刑に処せられました。

小浜藩士の嶺尾信之が享保5年(1720)に記した歴代藩主の言行録『玉露叢』(『酒井家玉露叢』)によれば、松木庄左衛門は刑架の上から「我は只今諸百性(百姓)の為に磔にかゝるぞ、大豆御納所の事は願の通に成べければ、此恩を思ひて我命日には廻向せよ」と高らかに叫んだといいます。
その言葉通りに年貢の引下げは認められたことから、近辺の百姓にも庄左衛門の命日に大豆を供えて供養する風習が生まれました。
藩主の酒井忠勝も「政務の内に三度非道の事有、此度の御仕置も一也」として、「道理に叶ひたる事」を訴願した庄左衛門の処刑を自身の三大失政の一つに挙げています。

寛延2年(1749)、松木庄左衛門が埋葬された正明寺に日笠村中が墓を建てたのをはじめ、江戸時代を通じて他にもいくつか供養碑が造立されています。
近代に入ると自由民権運動の流れで義民顕彰が盛んとなり、明治16年(1884)には小室信介が『東洋義人百家伝』を著して全国にその名が知られるようになりました。
昭和8年(1933)には地元の篤志家たちによって 熊川宿の小浜藩米蔵跡に松木庄左衛門を神として祀る「松木神社」も創建されています。

参考文献

『若狭の義民―義人荘左衛門と当時の若狭農政』(河村仁右衛門 松木神社奉賛会、1970年)
『東洋義人百家伝』第2帙上(小室信介 案外堂、1883年)
『福井県史』通史編4 近世二(福井県編 福井県、1996年)

松木神社へのアクセス

名称

松木神社

場所

福井県三方上中郡若狭町熊川第33号

備考

舞鶴若狭自動車道「小浜インターチェンジ」から車で20分。鯖街道熊川宿内の熊川郵便局隣に入口がある。

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