関東地方

義民の史跡

下田隼人翁碑(下田隼人の直訴事件)

江戸時代前期、小田原藩は財政悪化を埋め合わせるため領内の総検地を実施するとともに、新税として麦租を導入しようとしました。万治3年(1660)、相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主の下田隼人は、小田原藩主・稲葉正則に麦租反対を直訴...
義民の史跡

崖山地蔵(原嶋源右衛門と成瀬・長津田村境界相論)

享保元年(1716)、武蔵国多摩郡成瀬村(今の東京都町田市)名主・原嶋源右衛門は、都筑郡長津田村(今の神奈川県横浜市)との間の境界争いに勝訴しますが、後に不正を問われて一家全員処刑されたといわれます。処刑地には供養のための「崖山地蔵」が建て...
義民の史跡

久末義民地蔵(久末義民の門訴事件)

元禄6年(1693)、武蔵国橘樹郡久末村(今の神奈川県川崎市)が領主・佐橋内蔵之助の屋敷に年貢減免の門訴をしたところ、百姓19人が殺害される事件が起こりました。後に年貢は引き下げられましたが、村では犠牲者を供養するため数次にわたって地蔵尊を...
義民の史跡

池田三郎左衛門之碑(池田三郎左衛門の強訴)

慶長16年(1611)、増税に苦しむ上総国望陀郡田川村(今の千葉県木更津市)の名主・池田三郎左衛門は、十数度にわたって幕府に再検地を求め、願いは認められたものの、強訴の罪をもって処刑されたと伝えられています。地元には池田三郎左衛門の木像を安...
義民の史跡

関兵霊神社(遠藤兵内と伝馬騒動)

幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことを端緒として、明和元年(1764)から翌年にかけて、武蔵・上野・信濃・下野4か国20万人が参加する大一揆「伝馬騒動」が勃発しました。幕府は百姓側の要求を全面的に受け入れ事態を収拾しましたが、後日、武...
義民の史跡

六之丞八幡宮(堀江六之丞と板倉村強訴)

寛保元年(1741)、丹南藩領の下野国足利郡板倉村(今の栃木県足利市)の百姓らが年貢減免を求めて代官所への強訴を企て、説得に当たった堀江六之丞がかえって頭取とみなされ処刑される事件が起こりました。さらに、夫の無実を江戸表に訴えた妻・よねも同...
義民の史跡

勘十郎堀(市毛藤衛門と水戸藩宝永一揆)

宝永6年(1709)、松波勘十郎を登用して宝永改革を進める水戸藩では、運河開削の労役や賃金未済を巡る百姓の不満が爆発し、支藩・守山藩への強訴が発生しました。この「水戸藩宝永一揆」では、常陸国茨城郡上吉影村(今の茨城県小美玉市)庄屋・市毛藤衛...
義民の史跡

牛久助郷一揆道標(小池村勇七と牛久助郷一揆)

文化元年(1804)、水戸街道での助郷拡大に反対するため、常陸国信太郡小池村(今の茨城県稲敷郡阿見町)百姓・勇七らを筆頭に女化原に6千人が集まる一揆が発生し、牛久宿(今の牛久市)の麻屋治左衛門宅などを打ちこわしました。この「牛久助郷一揆」の...
義民の史跡

生板の三義人供養塔(片岡万平と生板一揆)

文化14年(1817)、凶作下で重税を課せられた常陸国河内郡生板まないた村(今の茨城県稲敷郡河内町)の百姓・片岡万平らが幕府代官・吉岡次郎右衛門の屋敷に門訴し、さらに勘定奉行に代官の非法を越訴しました。彼らは獄死したものの、後に代官は解任さ...
義民の史跡

照山修理の墓(照山修理と検地反対強訴)

寛永18年(1641)、常陸国多賀郡金沢村(今の茨城県日立市)庄屋・照山修理しゅりは、水戸藩の寛永検地に反対して強訴に及んだため磔刑に処せられました。しかし、藩も検地の際に縄延びさせて課税面積が少なくなるよう配慮したことから、後に菩提寺の長...
義民の史跡

遺跡義民佐七一族累代之墓(義民腹切り佐七の伝承)

江戸時代の享保年間、常陸国那珂郡三反田村(今の茨城県ひたちなか市)庄屋の平沢佐七は、飢饉に際して水戸藩の郷蔵を無断で開放し、百姓に穀物を分け与えた上で切腹したといいます。佐七の塚には明治時代に霊堂が建てられ、現在は寺院となっています。
義民の史跡

義民地蔵(磯部村清太夫と山外郷一揆)

寛延2年(1749)、笠間藩は凶作下で定免法への切替えを強行したため、常陸国茨城郡磯部村(今の茨城県桜川市)名主で磯部神社神主の清太夫ら山外郷27か村1千人が笠間城下で強訴に及びました。藩は一旦は要求を認めるものの、その後態度を一変して清太...