崖山地蔵(原嶋源右衛門と成瀬・長津田村境界相論)

崖山地蔵 義民の史跡
境界争いがもとで処刑された義民を祀る
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享保元年(1716)、武蔵国多摩郡成瀬村(今の東京都町田市)名主・原嶋源右衛門は、都筑郡長津田村(今の神奈川県横浜市)との間の境界争いに勝訴しますが、後に不正を問われて一家全員処刑されたといわれます。処刑地には供養のための「崖山地蔵」が建てられています。

義民伝承の内容と背景

武蔵国多摩郡成瀬村は、起伏があり瘠せた土地が多かったものの、村境近くにあたる東光寺集落では、名主・原嶋源右衛門の下での新田開発に成功しています。

しかし、隣接する都筑郡長津田村との間で境界争いが起こったため、東光寺集落では一夜のうちに境界とおぼしき場所に木炭を埋めて証拠づくりをし、その上で検地役人を呼んで訴訟を有利に進めようとしました。

この結果、境界相論については成瀬村の主張が認められましたが、木炭が元から埋められていたものではないことが後で露見し、享保元年(1716)ごろ、その首謀者として原嶋源右衛門とその一家全員が、村境にある崖山で処刑されたといわれています。

東光寺講中では村の犠牲となった原嶋源右衛門を悼み、その骨を拾い集めて原嶋家の屋敷跡に埋葬し、享保7年(1729)に舟形の供養碑を建てていますが、元の供養碑は崩壊してしまったため、平成に入ってから新しい供養碑が再建されました。

また、原嶋源右衛門一家が処刑された崖山にも享保14年(1729)に「崖山地蔵」が建てられています。地蔵(又は不動尊とも)の像容は風化のためほとんど原型をとどめていませんが、台座には成瀬東雲寺8世の考山和尚による銘文がびっしりと並んでおり、「為死刑者」「為原嶋氏」などの文言が見られます。

この伝説の真否を裏付ける史料はないものの、別の場所には、東光寺集落の原嶋源右衛門と境界争いをして吹上集落の土地を広げ、後に何者かに殺されたという初代の川田七兵衛(焼石当左衛門)を供養するための「首切り地蔵」の伝説と遺跡もあります。

参考文献

『成瀬の石佛』(監物博・岡部光雄 岡部光雄、1994年)
『町田の民話と伝承』第1集(町田市文化財保護審議会 町田市教育委員会、1997年)

崖山地蔵の地図とアクセス

名称

崖山地蔵

場所

東京都町田市南成瀬8丁目地内

備考

東名高速道路「横浜青葉インターチェンジ」から車で10分。成瀬クリーンセンター(下水処理場)や南成瀬東町内會會館と道路を挟んで隣り合う丘を登った奥に「崖山地蔵」が建っています。地蔵の隣には「名主・原嶋源右衛門の死刑執行の場所」として由来を記した案内板があります。

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原嶋源右衛門屋敷跡

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]