義民六人衆の墓(義民六人衆と新井宿村越訴事件)

義民六人衆の墓 義民の史跡
旗本の悪政を直訴して斬首された6人の墓

延宝5年(1677)、武蔵国荏原郡新井宿村(今の東京都大田区)の間宮太郎兵衛ら6人が、旗本・木原義永の悪政を幕府に直訴しようとして未遂に終わり、全員が木原邸で斬首される事件が起こりました。後に親類の間宮藤八郎は、両親の墓という名目でこれら「義民六人衆」を供養するための「隠し墓」を善慶寺境外に造立しました。現在では発掘調査などにより伝説の正しさが裏付けられ、墓は東京都の旧跡に指定されています。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代、武蔵国荏原郡新井宿村は旗本の木原氏が知行を宛てがわれていましたが、3代・木原義久の時代に八木三郎兵衛なる人物を登用し、土手や畦畔までも村高に含める無理な検地を行ったため、年貢皆済が困難となる百姓が続出しました。さらに4代・木原義永も旱魃や水害が続く中で重税を課して百姓を苦しめていました。

そこで延宝2年(1674)、新井宿村名主惣百姓は19か条にわたる訴状を領主に提出し、当年より3年間にわたる年貢の半減を願い出ました。この訴状は「新井宿村名主惣百姓等訴状写」として東京都の有形文化財に指定されていますが、年貢納入のために家や馬を売ったり、子供を奉公に出したり、高利の借金を重ねたりする窮状を切々と綴っています。

しかし、このような訴願は目的を果たさなかったことから、百姓らはやむなく代表を立てて将軍・徳川家綱に直訴することとなり、延宝4年(1676)12月28日夜、鎮守の熊野権現社に名主の酒井権左衛門以下、間宮太郎兵衛・間宮新五郎・鈴木大炊之助・平林十郎左衛門・酒井善四郎のあわせて6人が密かに集まり、祈願を込めて江戸へと出発しました。

6人は江戸に滞在して直訴の機会を窺っていましたが、正月2日、密告により未遂のまま捕らえられて詮議を受けた上、延宝5年(1677)正月11日に全員が木原家上屋敷において斬首の刑に処せられました。連絡を受けた村方では、百姓惣代の市兵衛が6人の遺骸を2頭の馬に乗せて村まで移送し、善慶寺の日応上人により遺骸が引き取られて境内墓地の片隅に葬られたといいます。

延宝7年(1679)、親類の間宮藤八郎が両親の墓と称して6人の墓石を善慶寺参道入口に造立し、大きなのり甕に6人の遺骨を移して墓石の下に密かに埋葬しました。この墓は正面に父母の名が書かれているものの、裏面には義民6人の法名があったり、線香立てに6人の家紋が刻み込まれていたりするほか、正面の水入れに水を注ぐと、くり抜かれた石の間から裏面にも水が巡り、6人を同時に供養できるようになっています。

昭和47年(1972)の道路拡幅に伴い発掘をしたところ、6人の義民の遺骨を納めたのり甕が出土し、伝説が誤りではなかったことが裏付けられました。現在は改葬されて境内に墓が移されていますが、遺骨が入っていた素焼きののり甕や、遺骸を木原邸から村まで移送したときに使ったという馬の飼葉桶も善慶寺に保管されています。

参考文献

『大田区史』中巻(大田区史編さん委員会 東京都大田区、1992年)
『大田の史話』(大田区史編さん委員会 東京都大田区、1981年)
『大森風土記』第1巻(杉原庄之助 大森史蹟研究会、1935年)

義民六人衆の墓へのアクセス

名称

義民六人衆の墓

場所

東京都大田区山王3丁目22番16号

備考

首都高速1号羽田線「平和島出入口」から車で5分。善慶寺境内左手の墓所の奥、「義民霊廟」という額が掲げられた覆屋の中にあります。

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]