平称霊神(平井兵左衛門と小豆島正徳一揆)

平称霊神 義民の史跡
幕府に越訴して処刑された大庄屋を神に祀る

正徳元年(1711)、高松藩預地となっていた讃岐国小豆島では、池田村(今の香川県小豆郡小豆島町)大庄屋・平井兵左衛門が年貢負担の軽減を求めて幕府に越訴し、斬罪獄門となりました。人々は平井兵左衛門の墓を造り供養するとともに、「平称霊神」として祀りその功績を称えました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代前期、小豆島は幕府の求めに応じて船舶や水主を出す労役を負担する代わりに米の年貢が減免される「加子浦」となっていました。元禄2年(1689)からはその資格がなくなり、他と同様の米納又は銀納での年貢負担をすることになったことから、負担が増えた島民たちの困窮は深まりました。

小豆島の幕府領は預地として高松藩が実質的に支配しており、島民たちは同藩に窮状を訴えるものの、一向に聞き入れられることはありませんでした。このため、正徳元年(1711)5月、池田村大庄屋であった平井兵左衛門は、池田村年寄の彦兵衛とともに江戸に赴き、島民の代表として幕府勘定奉行の平岩若狭守に越訴しました。

江戸で捕らえられた平井兵左衛門は翌年の正徳2年(1712)2月19日、江戸から高松に送り返されて篭舎となり、その後3月11日、池田村百姓の八郎左衛門宅で西町奉行・浅見勘左衛門らの役人が列座する中、池田村引廻しの上斬罪獄門を申し渡され、江尻浜において即日処刑されました。時に兵左衛門は36歳であったといいます。そして兵左衛門の「一味」として福田村庄屋の湊九左衛門が篭くだし・家財田畑山林闕所となり、他にも多くが追放の刑に処せられました。江尻浜の斬罪場には役人の命令によって島中の庄屋・年寄が呼び集められ、兵左衛門の獄門首は7日間にわたって晒されたということです。

島民たちは斬罪場の古松の下に兵左衛門の法名「吽如一覚居士」を刻む大五輪塔を建立するとともに、文化8年(1825)の「百年祭」に際しては、亀山八幡宮の御旅所に小祠を建て、「平称霊神」としてその霊を祀りました。昭和15年(1941)には内閣総理大臣の平沼騏⼀郎の揮毫による「義人頌徳之碑」が建てられ、現在も墓地の隣接地にあります。

参考文献

『池田町史』(川野正雄編 池田町、1984年)
『讃州百姓一揆史』(佐々栄三郎 新人物往来社、1982年)
『近世小豆島社会経済史話』(川野正雄 未来社、1973年)

平称霊神へのアクセス

名称

平称霊神

場所

香川県小豆郡小豆島町池田地内

備考

県道250号三都港平木線沿いにある「池田の桟敷」の下に並ぶ社のうち、左から2番目に当たる。

関連する他の史跡

❶平井兵左衛門の墓
❷義人頌徳之碑

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