明和義民の碑(明和義民と盛枡騒動)

明和義民の碑 義民の史跡
大垣藩盛枡騒動の犠牲者たちを顕彰する石碑

明和3年(1766)、大垣藩の年貢増徴策に対抗し、美濃国池田筋(今の岐阜県)ほかの農民が決起する「盛枡騒動」が起き、盛枡廃止や救米の要求が認められたものの、頭取として4人が処刑されました。彼らは「明和義民」と呼ばれ、地元に墓や顕彰碑が建てられています。

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義民伝承の内容と背景

大垣藩では年貢の徴収に当たり、米4斗3升(うち込米として3升)をもって1俵としていたところ、宝暦の末年ごろから1斗枡に山盛4杯とする指示が下り、事実上、従来に比べて1俵につき5升ほどの増徴となりました。

連年の洪水で疲弊していた百姓たちは、ついに明和3年(1766)に至って蜂起し、まずは1月19日に長瀬筋の百姓が強訴を行うものの、安八郡楽田村(今の大垣市)で出張してきた役人が願意を聞き入れたため、一旦ここで解散しています。

さらに1月24日夜、長瀬筋・池田筋から松明や提灯を手にした農民たちが集まり、途中で小島筋も加勢して、あわせて3千人が杭瀬川沿いを南下し、大垣城西の笠縫堤のあたりまで迫りました。通報を受けて早馬で駆け付けた代官や郡奉行が農民の説得に当たったため、1月27日には退散し、領内は平静を取り戻しました。

これを「盛枡騒動」「明和西濃騒動」といいますが、藩では騒動を受けて盛枡を廃止するとともに、各筋に救米を供出して農民を支援することにしたため、結果として決起の目的は果たされました。

しかし、その後大垣藩では首謀者の捜索を行い、池田筋の宮地村(今の揖斐郡池田町)喜平次・要助、長瀬筋の有里村(今の本巣市)新五郎・重吉の4人が徒党強訴の頭取として捕らえられ、9月11日に斬罪に処せられ、その首は居村に送られて3日にわたって晒されました。

昭和44年(1969)9月、池田町の大津谷公園内に、これら4人を「明和義民」として讃える「明和義民の碑」が建立されました。

参考文献

『大垣市史』上巻(大垣市編 大垣市、1930年)
『池田町史』通史編(池田町編 池田町、1978年)

明和義民の碑へのアクセス

名称

明和義民の碑

場所

岐阜県揖斐郡池田町願成寺地内

備考

東海環状自動車道「大野神戸インターチェンジ」から車で15分。池田町コミュニティバス「明和義民碑前」バス停向かい、大津谷公園内の石壇上にある。

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