土神宮(山田藤右衛門の強訴)

土神宮 義民の史跡
年貢増徴を撤回させ遠島となった名主を祀る

延元元年(1673)、上総国望陀郡新田村(今の千葉県袖ケ浦市)の名主・山田藤右衛門は、領主である旗本・太田八十郎に年貢増徴の撤回を求め、願いは認められたものの、強訴の罪をもって遠島となりました。後に藤右衛門を祀る「土神宮」が創祀され、現在も地元の八幡神社の境内にあります。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代の寛文年間、上総国望陀郡新田村は灌漑用のため池を巡って飯富村との水論を抱えており、訴訟を有利にするために、領主である旗本・太田八十郎に相談の上、江戸に住んでいた才覚者・藤右衛門を名主として迎え入れました。

藤右衛門はため池の共有を訴訟により認めさせて両村の水争いを見事に解決しましたが、その後の用水路の工事では領主の協力が得られず、工事費用の負担で百姓の困窮を招くようになりました。

そこで藤右衛門は領主の太田八十郎を相手として年貢引下げを求める訴訟に及び、年貢50石の減額が認められたものの、自身は強訴の罪をもって遠島、家財は闕所となり、配所の八丈島において病気により亡くなったとも、年貢を減らされた恨みをもつ領主により配所に向かう船中で毒殺されたとも伝えられています。

藤右衛門が配所へと旅立ったのは寛文13年(1673)4月7日のことであり、後に天明8年(1788)になって疫病が流行したのを機に、祟りを鎮めるために藤右衛門を祀る「土神宮」が建てられ、4月7日を命日に代えて祭礼が行われるようになりました。

現在、八幡神社の境内にある「土神宮」の石祠には、表面に「土神為郷土安全」、側面に天明8年(1788)の銘が刻まれています。

また、付近の共同墓地には文化9年(1812)に高橋文左衛門が施主となって建立した山田藤右衛門の供養墓が残されていますが、山田藤右衛門のほか佐久間清兵衛・佐久間紋十郎との連名になっています。

この佐久間清兵衛・紋十郎に関しては特段の伝承がないため、山田藤右衛門による強訴とどのような関係があったのかはわかっていません。

参考文献

『袖ケ浦町史』通史編 上巻(袖ケ浦町史編さん委員会編 袖ケ浦町、1985年)
『千葉県君津郡誌』下巻(千葉県君津郡教育会 千葉県君津郡教育会、1927年)

土神宮へのアクセス

名称

土神宮

場所

千葉県袖ケ浦市下新田994番地

備考

東京湾アクアライン連絡道「袖ヶ浦インターチェンジ」から車で10分。千葉県道143号南総昭和線沿いに鎮座する「八幡神社」社殿左手の小祠に祀られ、内部の石祠表面に「土神為郷土安全」、側面に天明8年(1788)の銘が刻まれています。

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