長恩院石塔(田辺小兵衛の義民伝承)

長恩院石塔 義民の史跡
馬堀用水を完成させるも打首となった名主の供養塔

正保2年(1645)、越後国蒲原郡馬堀村(今の新潟県新潟市)庄屋・田辺小兵衛は、干魃に悩む村人のために「馬堀用水路」を開削したものの、幕府役人から独断で工事を行った責任を問われ自殺したといいます。宝暦2年(1752)、村では小兵衛の遺徳を偲んで石塔を建て大祭典を催しており、今でも地元には用水と石塔が残り、「灯籠押し」の祭典も恒例行事となっています。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代前期、越後国蒲原郡馬堀村では旱魃に苦しんでおり、名主の田辺小兵衛は私財を投じて測量を行い、西川から水を引くための用水路の開削を幾度となく長岡藩に陳情しました。その結果として、寛永20年(1643)にようやく藩からの許しを得て工事に着手し、正保元年(1644)に全長4キロメートルにわたる「馬堀用水路」が完成しました。

しかし、翌年の正保2年(1645)に巡検に来た幕府の役人から独断で工事を行ったと詰問され、小兵衛に責任を転嫁したい長岡藩により入牢させられた末、同年7月25日に自殺を申し渡されたといわれています。

また、別の伝説によれば、役人と対立した田辺小兵衛は、板で水をせき止める妨害工作のために通水させることができず、責任を問われて打首になったといいます。そして打首の際、胴体から切り離された小兵衛の首は用水路に沈むと、やがて板をくわえて宙を高く飛び、たちまち水が流れるようになったともいわれ、これは近隣の曽根地区の義民・高橋源助の伝説に構図がよく似ています。

その後田辺小兵衛の遺骸は馬堀村に送り返されますが、遺族により屋敷地内に埋葬され小さな塚が築かれた程度であったため、宝暦2年(1752)8月21日、馬堀村では三根山領主の牧野侯に特に願い出て、小兵衛のために「長恩院筒覚日啓」の法号を刻む大きな石塔を建立しました。領主からも村を旱害から救った功労を嘉して資金の下賜があったといい、これが「馬堀の首塚」の別称をもつ「長恩院石塔」として現在も廟所内に残されています。

続く8月25日には村を挙げての盛大な供養が執り行われ、以来、菩提寺である久福寺の「首祭」がこの地域の伝統行事として定着するようになりました。この行事では地元の若衆が大きな灯籠をぶつけ合う「灯籠押し」が奉納されることでも知られています。

参考文献

『岩室村史』(岩室村史編纂委員会編 岩室村、1974年)
『新編水利史談』(水利史談編纂会編 財団法人水利科学研究所、1962年)
『上郷水害予防組合事業沿革史』(神田五朗編 神田五朗、1936年)

長恩院石塔へのアクセス

名称

長恩院石塔

場所

新潟県新潟市西蒲区馬堀2453番地1

備考

北陸自動車道「巻潟東インターチェンジ」から車で10分、新潟県道383号佐渡山巻線「栄町」交差点の北300メートルにある。石塔は「長恩院霊廟」内に安置されている。

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田辺小兵衛旧宅

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