金重大明神(金子重右衛門と太枡騒動)

金重大明神 義民の史跡
死後神に祀られた一揆指導者の祠

寛政4年(1792)、甲斐国(今の山梨県)田安領で八代郡金田村(今の笛吹市)長百姓・金子重右衛門らが年貢徴収に係る代官所の不正を江戸の寺社奉行に越訴しましたが、身柄を田安家に引き渡され、重右衛門を含む3人が処刑されました。地元には重右衛門を「金重大明神」として祀った小祠や墓碑などが残されています。

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義民伝承の内容と背景

徳川御三卿の一つの田安家領に当たる甲斐国山梨郡・八代郡では、新任代官の山口彦三郎のもと、1升1斗入りの「太枡」を用いて年貢米1升を不正に計量したり、検見の際に上出来の田ばかりを坪刈して課税標準を引き上げたりと、「新規御仕法」と呼ばれるこれまでとは異なる種々の方法で年貢増徴を図ろうとしました。

これに対して、八代郡金田村の金子重右衛門、山梨郡綿塚村(今の甲州市)の三沢重右衛門、山梨郡熊野村(同)の鮎沢勘兵衛ら長百姓が中心となって寄合を重ね、寛政4年(1792)、まずは一町田中村(今の山梨市)にあった田中陣屋に訴えますが、取り上げられることはありませんでした。

そこで不参加を決めた村を除く田安家領の山梨郡・八代郡54か村では、正月の松飾りや餅の準備を自粛の上、惣代を選んで江戸に送り、この年の暮れの12月27日に田安家役人の不正を糾弾する10か条の訴状を寺社奉行の立花種周に提出しました。

これら江戸で越訴をした惣代たちの多くは捕縛され田安家に引き渡されため、残りの惣代たちが翌年2月に江戸城桔梗門外で老中・松平定信への駕籠訴に踏み切るものの、結局は直訴に関係した90人ほどが入牢することとなり、以後厳しい吟味が行われました。

寛政5年(1793)7月18日、田安家の吟味に基づき勘定奉行・根岸鎮衛から裁許状が出され、「徒党強訴之頭取」として綿塚村重右衛門及び金田村重右衛門が獄門、熊野村勘兵衛(既に牢死)が死罪、家財は闕所(没収)と決し、獄門首は日川河原に晒されました。

一方の田安家においては、地元の酒造業者の松葉屋の出身で、算術に長け永年にわたって手代として田安家に奉公してきた地方役・山下次助(治助)のみに責任を負わせ、江戸十里四方及び甲斐国内の田安家領からの御構(追放)として幕引きを図りました。

この一件は「太枡騒動」と呼ばれますが、百姓一揆で犠牲となった金田村の金子重右衛門は、田安家の代官となった磯部最信(よしのぶ)の勧告により、江戸時代末期の文久3年(1863)に地元有志の手で「金重大明神」として祀られました。近代の神社整理政策のあおりで後に金子家所有地に遷座するものの、現在に至るまでその石祠は残っています。

参考文献

『山梨県史』通史編4 近世2(山梨県 山梨日日新聞社、2007年)
『八代町誌』上(八代町誌編纂室編 八代町、1975年)
『義民重右衛門事蹟』(水上文淵 田村逸平、1923年)

金重大明神へのアクセス

名称

金重大明神

場所

山梨県笛吹市一宮町金田地内

備考

中央自動車道「一宮御坂インターチェンジ」から車で5分。西運寺の東150メートルの畑の中に鎮座しており、手前の石碑に経緯が記載されている。

関連する他の史跡

❶金子重右衛門の墓
❷田安陣屋跡
❸三沢重右衛門墓
❹熊野勘兵衛供養塔

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]