朝来義民之碑(松岡新右衛門と享保一揆)

朝来義民之碑 義民の史跡
江戸で箱訴の後に遠島となった庄屋を悼む碑
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不作に悩む但馬国楽音寺村(今の兵庫県朝来市)では、享保9年(1724)に庄屋・松岡新右衛門が年貢減免を求めて生野代官に嘆願するものの受け入れられず、江戸に上って越訴を繰り返しました。新右衛門は八丈島に遠島となり、彼の地で没したため、後に菩提寺である楽音寺の境内に墓碑や顕彰碑が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代中期の享保年間、但馬国朝来郡では連年のように旱魃や虫害に見舞われ、百姓の困窮は深まっていました。しかし、年貢率を一定とする定免制の下では用捨引きと呼ばれる年貢減免も容易には行われず、年貢米の銀納値段も相場を大幅に超えるものでした。

朝来郡楽音寺村の庄屋・松岡新右衛門は、生野代官所に年貢減免を嘆願するものの、代官が江戸詰めで不在だったため、享保9年(1724)の冬、江戸に上って訴訟に及ぶことになりました。ところが、ここでも代官には訴訟を取り上げてもらえず、やむなく幕府の勘定奉行に越訴し、いったん入牢の上で国元に帰されました。

その後、享保10年(1725)3月に代官から年貢の割付状が届きますが、結局減免はなく厳しい取立てが続いたため、朝来郡10か村の百姓が楽音寺に集結して不穏な情勢となりました。

新右衛門は百姓らに軽挙妄動を戒めるとともに、同年5月、再度び江戸に上って目安箱に訴状を投じました。結果として銀納値段は豊岡の相場が基準となり負担軽減が図られたものの、度重なる越訴で罪に問われた新右衛門は八丈島に流罪となり、37年にわたる流人生活を送りました。

宝暦12年(1762)8月5日、新右衛門はようやく赦免されますが、早くも9月3日に島内で病死してしまったため、その後菩提寺である楽音寺の境内に「安養院愁岳浄品居士」と刻む墓碑や顕彰碑「朝来義民之碑」が建てられました。

参考文献

『山東町誌』本編(山東町史編さん委員会編 山東町、1991年)
『兵庫県史』第4巻(兵庫県史編集専門委員会編 兵庫県、1979年)
『朝来志』巻12(木村発編 木村発、1903年)

朝来義民之碑の地図とアクセス

名称

朝来義民之碑

場所

兵庫県朝来市山東町楽音寺579番地

備考

北近畿豊岡自動車道「山東インターチェンジ」から車で5分、又はJR「和田山駅」からアコバス20分、「ひめはな舞ロード」バス停下車、徒歩3分。楽音寺の境内西側に並ぶ碑の一つ。

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