義民の史跡戸塚義民の墓(戸塚村善兵衛と戸塚騒動) 寛延2年(1749)、陸奥国白川郡戸塚村(今の福島県東白川郡矢祭町)では2年続きの不作で百姓が困窮し、塙代官所に年貢延納や金米借用を強訴する「戸塚騒動」が勃発しました。翌寛延3年(1750)2月には代官所を百姓2千人が包囲し、安楽寺に逃れた...2023.05.29義民の史跡
義民の史跡青田神社(佐藤仁左衛門と宝永騒動) 延宝7年(1679)、生駒領の出羽国矢島郷(今の秋田県由利本荘市)で重臣の山本一家が増税を強いたため、百姓が江戸に直訴して山本一家は失脚しました。代わって台頭した城代家老・市橋彦兵衛も搾取を続けたため、佐藤仁左衛門らが再度直訴して領主の朱印...2023.05.26義民の史跡
義民の史跡甚助神社(佐藤甚助と上到米村越訴) 正保2年(1645)、冷害に悩む出羽国雄勝郡上到米村(今の秋田県雄勝郡羽後町)の長百姓・佐藤甚助は肝煎とともに久保田藩主・佐竹義隆に直訴し、翌年に年貢減免が認められました。その後、甚助の事績を顕彰するため、大正時代に甚助を作神として祀る「甚...2023.05.27義民の史跡
義民の史跡昆野八郎右エ門神社(昆野八郎右衛門と釘子村越訴) 天和2年(1682)、陸奥国磐井郡釘子村(今の岩手県一関市)の地肝煎・昆野八郎右衛門は、重税で疲弊する農民を救うため仙台藩主に直訴し、刑死したといわれています。その後、釘子村では年貢が軽減され穀納から金納に変わったといい、明治時代に義民とし...2023.05.26義民の史跡
義民の史跡切牛(佐々木)弥五兵衛の墓(弘化・嘉永三閉伊一揆) 弘化4年(1847)、陸奥国(今の岩手県)盛岡藩主・南部利済の悪政に対し、三閉伊通の百姓1万人以上が決起し、切牛の弥五兵衛指導の下、新税撤廃などを要求して遠野城下に強訴しました。藩は百姓の要求を認め、藩主は一旦隠居しましたが、ほどなく復権し...2023.05.26義民の史跡
義民の史跡間沢村三霊供養碑(白岩義民と白岩一揆) 寛永10年(1633)、出羽国村山郡白岩郷(今の山形県寒河江市・西村山郡西川町)の百姓が「白岩目安」をもって旗本・酒井忠重の苛政を幕府に直訴し、後に忠重は改易されて代官支配となりました。寛永15年(1638)、再び一揆が起きるものの、山形藩...2023.05.28義民の史跡
義民の史跡義民藤田民次郎顕彰之碑(藤田民次郎と民次郎一揆) 文化10年(1813)、弘前藩領の百姓2千人が城下に押しかけ、冷害による年貢減免を求め強訴しました。藩主・津軽寧親の英断により年貢の3年減免は認められたものの、首謀者として名乗り出た陸奥国津軽郡鬼沢村(今の青森県弘前市)の藤田民次郎が責任を...2023.05.22義民の史跡
義民の史跡史跡五義民首切塚(坊沢の五義民と坊沢村村方騒動) 享保9年(1724)、出羽国秋田郡坊沢村(今の秋田県北秋田市)において、村入用を巡る肝煎との対立から久保田藩に直訴した成田喜兵衛ら「五義民」が処刑されました。後に坊沢集落の永安寺には「五義民地蔵」が、処刑地の桜木岱には「五義民の碑」が建てら...2023.05.27義民の史跡
義民の史跡畑中喜右衛門の碑(畑中喜右衛門と子吉川の河川改修) 万治元年(1658)、出羽国由利郡滝沢郷(今の秋田県由利本荘市)庄屋の畑中喜右衛門は、子吉川の河川改修を代官に執拗に訴えて処刑されました。貞享3年(1686)、その供養のために墓碑として「畑中喜右衛門の碑」が建てられ、現在も墓前で慰霊祭が行...2023.05.27義民の史跡
義民の史跡菅野八郎自刻之碑(菅野八郎と信達世直し一揆) 慶応2年(1866)、幕府が生糸・蚕種の売買に改印制を導入して冥加金を徴収しようとしたことに反対し、陸奥国信夫・伊達両郡の百姓が蜂起し、役人と結託した商家の打ちこわしを行いました。この「信達世直し一揆」は陸奥国伊達郡金原田村(今の福島県伊達...2023.05.29義民の史跡
義民の史跡義民斎藤彦内墓所(斎藤彦内と寛延信達一揆) 寛延2年(1749)、冷害による凶作に見舞われた桑折代官所支配68か村の百姓は、年貢減免を求めて代官所を取り囲む強訴に及びました。この「寛延信達一揆」の後、年貢は引き下げられましたが、陸奥国伊達郡長倉村(今の福島県伊達市)の斎藤彦内をはじめ...2023.05.29義民の史跡
義民の史跡義民太郎右衛門霊堂(佐藤太郎右衛門と享保信達一揆) 享保14年(1729)、幕府代官・岡田庄太夫による定免法採用と年貢増徴に反発し、陸奥国信達地方(今の福島県)の百姓が代官所に強訴し、江戸でも佐原村名主・佐藤太郎右衛門が箱訴に及びました。太郎右衛門は捕らえられて翌年に打首獄門となったため、墓...2023.05.28義民の史跡