牛久助郷一揆道標(小池村勇七と牛久助郷一揆)

牛久助郷一揆道標 義民の史跡
助郷一揆犠牲者の供養碑を兼ねた道標
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文化元年(1804)、水戸街道での助郷拡大に反対するため、常陸国信太郡小池村(今の茨城県稲敷郡阿見町)百姓・勇七らを筆頭に女化原に6千人が集まる一揆が発生し、牛久宿(今の牛久市)の麻屋治左衛門宅などを打ちこわしました。この「牛久助郷一揆」の頭取らは全員牢死し、現地には麻屋治左衛門が供養のために建てた戒名入りの道標が残されています。

義民伝承の内容と背景

水戸街道の牛久宿は、次の宿駅との間隔が長く人馬の継立てに不便なため、牛久宿問屋の麻屋こと飯嶋治左衛門は、周辺農村から人馬を徴発する助郷の対象となる差村さしむらの拡大を幕府に願い出ました。

助郷の拡大が認められれば、遠方の村々は宿への行き帰りの手間で農作業にも支障が出ることから、実際には宿に資金を積み立てて利息を増やし、金銭で代わりの人馬を雇ってもらう方法をとるのが一般的でした。

この間の経緯を記した『常久肝胆夢物語』では、麻屋治左衛門の人馬請負人であった久野村(今の牛久市)和藤治が、村々からこうした金銭を徴収して私腹を肥やすことを目的に画策したものとされています。

助郷差村を調査するため幕府から論所地改じあらため手代として鈴木栄助と太田幸吉の両人が牛久宿に派遣されていた文化元年(1804)10月、村々の高札場に「六拾歳以下拾五歳以上、男たるへきもの、女化おなばけ原え可罷出」という匿名の張札がなされ、小池村勇七、同村吉十郎(吉重郎)、桂村(今の牛久市)兵右衛門が中心となって、女化原で百姓らの大規模な集会が開かれました。

兵右衛門からは、牛久宿問屋の麻屋治左衛門、久野村和藤治、阿見村(今の稲敷郡阿見町)組頭・権左衛門が馴れ合って私欲のため増村したのだから居宅を打ちこわすべしとの提案がなされ、ついに信太・河内両郡の55か村、6千人からなる大規模な助郷一揆が勃発しました。

一揆勢は女化稲荷に祈願の上で麻屋などを打ちこわして気勢を上げるものの、もともと幕府と敵対する意図まではなかったため、幕府の命令で佐倉藩や土浦藩が出兵するに及んで戦わずしてそれぞれの村々に退散し、騒動は収まりました。

その後幕府は勘定書留役を派遣して徒党を組んだ村々を捜索し、多数の百姓を捕らえて筑波郡角内新田の人足寄場(今のつくば市)に新設された牢屋に入れたといいます。そのうち小池村勇七、吉十郎、桂村兵右衛門は江戸伝馬町の牢屋に送られ、厳しい吟味の末に文化2年(1805)正月中には3人全員が獄死を遂げました。

幕府勘定奉行は「存命ニ候ハヽ」として小池村勇七に獄門、吉十郎及び桂村兵右衛門に遠島を申し付けるものの、既に彼らは亡くなっており、他に一揆に加担した村々の百姓も積極・消極の区別なく過料の支払いを命じられ、増助郷は結局免除されずに10年間の期限付きとなって幕を下ろしました。

この助郷一揆の発端となった麻屋治左衛門は、文化6年(1823)、街道筋に「南 じつこく(実穀) こいけ(小池) おかみ(岡見) りうがさき(龍ケ崎)」などの方位と地名とともに、小池村勇七、小池村吉十郎、桂村兵右衛門の3人の戒名と俗名を彫った異例の道標を建ててその菩提を弔っています。

参考文献

『茨城県史』近世編(茨城県史編集委員会 茨城県、1985年)
『牛久助郷一揆の構造とその世界』(高橋実 筑波書林、1989年)
『茨城百姓一揆』(植田敏雄 風濤社、1974年)

牛久助郷一揆道標の地図とアクセス

名称

牛久助郷一揆道標

場所

茨城県稲敷郡阿見町阿見地内

備考

首都圏中央連絡自動車道「牛久阿見インターチェンジ」から車で10分。自衛隊霞ヶ浦駐屯地の南側、茨城県道48号土浦竜ヶ崎線「阿見一区南」交差点の角にあり、覆堂のなかに南向きに安置されています。

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