義民の史跡北郷開樋殉難者之碑(鳴尾の義民と天正北郷樋事件) 天正19年(1591)、干魃に悩む摂津国武庫郡鳴尾村(今の兵庫県西宮市)は枝川上流の瓦林村(同市)から無断引水し、両村百姓の乱闘事件に発展しました。結果として鳴尾村の取水権は認められたものの、豊臣政権の「喧嘩停止令」に違反したとして、この翌...2023.05.30義民の史跡
義民の史跡光国稲荷(赤松源右衛門と享保一揆) 享保18年(1733)、丹後国(京都府)田辺城下で年貢率引下げや夫食米貸与を要求する「享保一揆」が起こり、藩は役人を罷免するとともに百姓側の要求を認めました。後になって二箇村大庄屋・赤松源右衛門が捕らえられて獄門に処せられたため、村人たちは...2023.04.25義民の史跡
義民の史跡朝来村三兵衛墓(三兵衛の義民伝承) 江戸時代、紀州藩田辺領内では郡奉行と代官による毛見が重複して行われており、接待に当たる百姓の煩いの種となっていました。紀伊国朝来村(今の和歌山県上富田町)の三兵衛は、郡奉行の毛見は無益と主張し、簀巻きにされ海中に沈められたと伝えられています...2023.04.27義民の史跡
義民の史跡戸谷新右衛門の墓地(戸谷新右衛門と高野枡一揆) 享保5年(1720)、紀伊国伊都郡(今の和歌山県)高野山領の年貢の不正徴収に関連して、島野村庄屋・戸谷新右衛門が幕府に越訴し是正されたものの、帰郷後に石子詰で処刑されたという伝説があります。現地には新右衛門が生前に用意していたという墓が残っ...2023.06.14義民の史跡
義民の史跡孝子庄右衛門誕生地碑(山口与十郎と芝村騒動) 宝暦3年(1753)、大和国(奈良県)十市郡の芝村藩預地では百姓が高率の年貢に苦しみ、減免を求めて京都町奉行に越訴に及びました。結果として村々の負担は減少したものの、多数の百姓が牢死したほか、常盤村庄屋・彦市が死罪、八条村庄屋・与十郎らが遠...2023.05.09義民の史跡
義民の史跡平尾代官所跡(西谷村又兵衛と竜門騒動) 大和国吉野郡龍門郷(今の奈良県吉野郡吉野町・宇陀市)15か村は旗本・中坊広風の知行所でしたが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を強行しようとしたため、文政元年(1818)、西谷村又兵衛ら6百人が平尾代官所に押しかけて代官を殺害し、平尾村大庄屋...2023.06.15義民の史跡
義民の史跡平井庄屋太兵衛碑(平井村太兵衛と松山藩越訴) 寛文8年(1668)、宇陀松山藩では用人頭による政策のために百姓が難渋し、大和国宇陀郡平井村(今の奈良県宇陀市)庄屋・太兵衛らが江戸に出向いて藩主・織田長頼に直訴に及びました。しかし、藩主は殿中で恥辱を与えたとして立腹し、連座を含めて5人が...2023.06.22義民の史跡
義民の史跡柿の木地蔵(中尾重兵衛と篠山藩越訴) 元和7年(1621)、篠山藩は不作につき柿などの生木物(なりきもの)の上納を領内に命じました。飢えに苦しむ百姓を見かねた丹波国多紀郡二ノ坪村(今の兵庫県丹波篠山市)の中尾重兵衛らが京都所司代に越訴し、新税は取止めとなったものの、重兵衛を含む...2023.05.29義民の史跡
義民の史跡平地地蔵(吉田新兵衛と宮津藩文政一揆) 文政5年(1822)、宮津藩では年貢先納や新税賦課に反発した数万人規模の百姓による「宮津藩文政一揆」が勃発し、大庄屋の屋敷などを打ちこわしながら宮津城下に押し寄せました。家老・栗原理右衛門の名代として派遣された子の百助らが慰撫して一揆はよう...2023.06.02義民の史跡
義民の史跡梅ぼし半十郎観音(松岡半十郎と市川騒動) 万延元年(1860)、福知山藩の専売制強化に憤る義賊・松岡半十郎が産物会所を襲い、直後に大規模な百姓一揆が勃発しました。この一揆は年貢増徴や専売制強化により藩財政の改革を進めていた責任者・市川儀右衛門の名から「市川騒動」と呼ばれます。最終的...2023.06.21義民の史跡
義民の史跡本田又左衛門・石坪万右衛門紀功碑(本田又左衛門と享保の強訴) 享保19年(1734)、凶作下で年貢増徴を行った福知山藩では、城下に多数の百姓が詰め掛ける「享保の強訴」が発生しました。このとき藩は百姓の要求を認め、穏便な解決が図られましたが、10年後、唐突に取調べがはじまり、頭取のうち既に病死していた丹...2023.05.06義民の史跡
義民の史跡らん塔碑(片岡治兵衛と桶伏せの伝承) 慶安元年(1648)、丹波国報恩寺村(今の京都府福知山市)で猪による農作物の被害があり、庄屋・片岡治兵衛が年貢減免を求めたところ、福知山藩主・稲葉紀通の不興を買い、残忍な桶伏せの刑に処せられました。現地には治兵衛一家の法名を刻む墓碑が残され...2023.04.22義民の史跡