宗吾霊堂(木内惣五郎と佐倉宗吾一揆)

宗吾霊堂 義民の史跡
歌舞伎や講談でも有名な義民を供養する寺院
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承応2年(1652)、下総国印旛郡公津村(今の千葉県佐倉市)の名主であった木内惣五郎は、佐倉藩の悪政を将軍に直訴し、処刑されたと伝わっています。その後、佐倉藩堀田家は改易されたことから惣五郎の祟りと噂され、『佐倉義民伝』として多くの文芸のモチーフにもなりました。現地には惣五郎を祀る「宗吾霊堂」などの関連遺跡がいくつか見られます。

義民伝承の内容と背景

承応元年(1652)、下総国印旛郡公津村の名主であった木内惣五郎は、重税にあえぐ百姓の苦悩を佐倉藩に訴えますが聞き届けられず、やむなく上野寛永寺に参詣する途上にあった4代将軍・徳川家綱に直訴します。

その結果として、百姓の申状は聞き届けられ、3年間の年貢減免が認められたものの、惣五郎は罪科により妻とともに磔となり、男子4人も死罪となりました。同寺の過去帳によれば、惣五郎の命日は承応2年(1653)8月4日とあります。遺骸は東勝寺の澄祐和尚によって公津ヶ原刑場に埋葬され、木内惣五郎を祀る東勝寺はいつしか「宗吾霊堂」と呼ばれるようになりました。

木内惣五郎の亡霊は、佐倉藩主・堀田正信を改易・自殺へと追い込んだとされ、延享3年(1746)に老中・堀田正亮が出羽山形藩から下総佐倉藩11万石に移封されると、将門山に「口之宮明神」の社を造営して木内惣五郎を祀るとともに、百周忌に「宗吾」と追諡してその霊を慰めました。文化3年(1804)には、経済的に困窮した佐倉宗吾の子孫・木内利左衛門を救うためとして、時の藩主・堀田正時から田高5石余(7反1畝15歩)が与えられています。

史実をどこまで反映しているかは不明なものの、藩も認めた佐倉宗吾の伝説は、勝胤寺地蔵堂で庵主が旅の六部に語ったという設定の『地蔵堂通夜物語』などの文芸作品にまとめられて流布し、幕末には歌舞伎「東山桜荘子」(公儀を憚り足利時代の話に脚色されている)の題材にも採り上げられて大ヒットしたほか、「佐倉義民伝」として明治の自由民権運動に大きな影響を与えました。

参考文献

『佐倉惣五郎』(児玉幸多 吉川弘文館、1985年)
『義民伝承の研究』(横山十四男 三一書房、1985年)
『佐倉惣五郎と宗吾信仰』(鏑木行廣 崙書房、1998年)

宗吾霊堂へのアクセス

名称

宗吾霊堂

場所

千葉県成田市宗吾1-558

備考

東関東自動車道「富里インターチェンジ」から車で10分。駐車場あり。公共交通機関でのアクセスは京成電鉄「宗吾参道駅」から徒歩20分、又は「成田駅」から路線バスに10分乗車し「宗吾霊堂」バス停で下車。

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