首切り地蔵(上月平左衛門と新野村越訴)

首切り地蔵 義民の史跡
幕府への越訴を企て惨殺された大庄屋を祀る石地蔵

宝永5年(1708)、播磨国神西郡新野村(今の兵庫県神崎郡神河町)の大庄屋・上月平左衛門は、重税に苦しむ農民のため幕府に越訴しようとしますが、途中の根宇野村(今の神河町)で役人に追いつかれ斬殺されてしまいます。村人たちは平左衛門を憐れみ地蔵を建てて供養したということです。

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義民伝承の内容と背景

播磨国神西郡新野村の大庄屋を務めた上月平左衛門には、亀ケ壺山(今の姫路市夢前町地内)を神西郡・飾西郡の入会地として共有化するなど、農民のために尽くした事績が伝わっています。上月家は南北朝時代に活躍した武将・赤松円心以来の同家の家臣であり、後にこの地で帰農・土着しており、平左衛門はその子孫といわれます。

上月平左衛門は、凶作飢饉の中で重税に苦しむ農民のため、領主で旗本の池田氏に何度も年貢減免を訴えるものの取り上げてもらえず、ついに幕府に越訴をしようと決意の旅に出ました。

今に伝わる野崎次太夫・関口重郎兵衛の両奉行に宛てた宝永5年(1708)8月25日付けの口上書には、「余り御情なき(中略)とかく御両人御恨に奉存候事」などとあり、後世の偽作という指摘はあるものの、政治に対する辛辣な批判が目立ちます。

そしてこの旅の途中、神東郡根宇野村(今の神崎郡神河町)に来たところで役人に追い付かれ、その場で背後から不意打ちに斬り殺されてしまいました。

村人たちは彼を憐れんで道端に石地蔵を建てたものの、その後ひとりでに首が落ちてしまい、再び石地蔵を作り直してもまた首が落ち、ちょうど肩から乳脇にかけて石が割れ袈裟斬りの姿になってしまったため、僧侶を呼んで懇ろに供養したといいます。

この出来事があった年代には宝永・宝暦の2つの説があるほか、言伝えの内容が同じ平左衛門を名乗る世代の異なる複数の人物の事績を混同した可能性も指摘されています。

ともあれ、現在も根宇野地区の路傍には伝説の「首切り地蔵」、またの名を「袈裟斬り地蔵」が丁重に祀られているほか、生誕の地に当たる新野地区にも、明治時代に建てられたいくつかの「上月平左衛門の碑」が残されています。

参考文献

『兵庫県史』第4巻(兵庫県史編集専門委員会編 兵庫県、1979年)
『百姓一揆―幕末維新の民衆史』(赤松啓介 明石書店、1995年)
『新野上月氏の研究』(高橋弘治 高橋弘治、1987年)

首切り地蔵へのアクセス

名称

首切り地蔵

場所

兵庫県神崎郡神河町根宇野(みよの)地内

備考

播但連絡道路「神崎南インターチェンジ」から車で10分、兵庫県道8号加美宍粟線沿いの四阿風の建物に安置されている。

関連する他の史跡

❶上月平左衛門の碑

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]