新七稲荷(平林新七の越訴)

新七稲荷 義民の史跡
検地役人に抗して死罪となった組頭を祀る祠

享保6年(1721)、信濃国小県郡中挾村(今の長野県小県郡青木村)組頭・平林新七は、同村の西上地籍が古くから検地役人が入らないしきたりとなっていることを訴えたものの聞き入れられず、検地を強行しようとした役人を鎌で斬り殺して死罪になったとも、佐久郡に追放になったとも伝えられています。新七は後に「新七稲荷」として祀られ、今でも現地にはその小祠があります。

広告

義民伝承の内容と背景

享保6年(1721)、信濃国小県郡中挾村に検地役人が訪れますが、同村の西上地籍は「駕籠入」と呼ばれ古くから検地役人が立ち入らないしきたりとなっていたところ、強いてそのしきたりを破り検地をしようとしました。

このため、組頭を務めていた平林新七が役人を制止しようとしますが聞き入れられず、やむなく役人を鎌で斬り殺してしまいます。

藩主は役人に落度があったとして年額45俵の用捨米(年貢減免)を認めたといいますが、一方の新七は同年6月14日死罪になったとも、又は佐久郡に追放になったとも言い伝えられています。

この言伝えとは別に、西上地籍の年貢が高率であったため、平林新七が何度か訴え出て年貢が引き下げられたという話もあリますが、いずれにしても平林新七が村の年貢負担の軽減に何らかの貢献したことは確かなようです。

明和3年(1766)、中挾村の正兵衛が「不図(ふと)思ひ付」、子孫が絶え無縁仏となった新七を稲荷大神として祀ることを村役人らに願い出て、翌年の明和4年(1767)、駕籠入の地を見下ろす上野山の山頂に「新七稲荷」の祠が創建されました。

また、真偽のほどは不明ながら、後の時代に医師で寺子屋の師匠もしていた橋爪玄惟が作成した頌徳文によれば、平林新七は実は長宗我部一族の子孫であり、本名は「秦基澄」であったともいいます。

義民と慕われる平沢新七の墓は、通称「月夜平」と呼ばれる山麓にあり、墓碑には「敬子浄正信士」の法名が刻まれています。

参考文献

『百姓一揆と義民伝承』(横山十四男 敎育社、1977年)
『義民の里・青木村』(宮原栄吉 郷土出版社、1986年)
『青木村誌』歴史編上(青木村誌編纂委員会編 青木村、1994年)

新七稲荷へのアクセス

名称

新七稲荷

場所

長野県小県郡青木村田沢地内

備考

上信越自動車道「上田菅平インターチェンジ」から車で30分、豊受社脇の「史跡新七稲荷」標識を直進し、途中で未舗装となる山道に入る。

関連する他の史跡

❶享保の義民平林新七の墓

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]