赤尾丹治翁顕徳碑(赤尾丹治と文化一揆)

赤尾丹治翁顕徳碑 義民の史跡
井堰建設に絡み打首となった大庄屋を讃える

岡藩から起こった「文化大一揆」の影響を受け、文化9年(1812)、豊前国(大分県)でも井堰工事に係る加免や新税賦課に反対する百姓が蜂起し、庄屋宅などを打ちこわしました。この一揆の首謀者として下赤尾村丹治らが処刑され、近代以降、墓碑や顕彰碑が建てられています。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代後期、中津藩領の宇佐郡赤尾組大庄屋・赤尾三左衛門は、桂掛井堰を延伸して駅館(やっかん)川の水を佐野村や赤尾村(いずれも今の宇佐市)まで引く工事に着手しました。井堰の工費は「加免」と称して5か年を限り年貢に上乗せして負担する約束でしたが、藩は期限後も加免を続け、なおかつ新税を賦課したことから、百姓の不満は日増しに高まっていきました。

三左衛門の養子・赤尾丹治は、佐野村・赤尾村の百姓が城下に強訴すると騒ぎ立てたのを制⽌し、単身で藩庁に訴願しようとしましたが受け入れられず、多数の百姓が庄屋の屋敷などを打ちこわしながら城下に押し出す事態となりました。

文化8年(1811)12月に岡藩から起こった「文化大⼀揆」の影響もあり、既に文化9年(1812)2月初めから領内は騒然としており、中津町会所の『惣町大帳』によれば、2月21日夜は中津城下で「殊之外騒動」があり、⼀揆勢が悪口雑言しつつ竹槍を突き掛けてきたため、藩側も鉄砲で応戦して百姓3⼈が犠牲になったとあります。一方で『大宇佐郡史論』では丹治の決起を3月19日のこととしています。

中津藩ではこの⼀揆の首謀者を捜索し、やがて丹治の屋敷にも捕手が訪れました。『党民流説』によれば、藩の捕手が丹治宅に乗り込んだ際、本⼈の姿が見えず、やむなくその⺟を縛ろうとしたところ、夫の留守に親を搦め捕られては子としての孝養の道が立たないとして、嫁が自分を代わりに捕縛するよう申し出たといいます。逆に⺟のほうでは、我が子の不始末は自ら責任を負うと言い出して聞かず、⺟と嫁とで互いに庇い合っているうちに丹治が帰宅したため、そのまま丹治を捕縛したということです。

同年8月28日、赤尾丹治を含む8⼈が打首獄門、3⼈が永牢、5⼈が追放所払となりました。犠牲となった丹治の地元の赤尾村には、宇佐史談会が大正時代に自然石の巨大な墓碑を建てています。昭和48年(1973)にも響山公園内に治水の功労を称える「赤尾丹治翁顕徳碑」が新設され、当時の田中角栄首相が揮毫しています。

参考文献

『大分県史』近世篇2(大分県総務部総務課編 大分県、1985年)
『大宇佐郡史論』(小野精一 宇佐郡史談会、1931年)
『徳川時代百姓一揆叢談』下冊(小野武夫編 刀江書院、1927年)

赤尾丹治翁顕徳碑へのアクセス

名称

赤尾丹治翁顕徳碑

場所

大分県宇佐市四日市小菊地地内

備考

宇佐別府道路「四日市インターチェンジ」から車で5分、響山地区公園の丘の上に建つ響山稲荷社に隣接する。園内には麓から頂上近くの駐車場まで延びる車道がある。

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赤尾丹治墓碑

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