風神鎮塚(中平善之進と津野山騒動)

風神鎮塚 義民の史跡
死罪となった庄屋の怨霊を恐れ建立された塚

江戸時代中期、土佐藩は専売制の強化で財政再建に当たろうとしますが、産物を安く買い叩こうとする特権商人と百姓らの軋轢が深まり、宝暦5年(1755)、高岡郡檮原村(今の高知県高岡郡檮原町)では一揆寸前の事態を迎えました。一揆の企ては阻止されたものの、庄屋・中平善之進が徒党強訴の嫌疑で斬首され、以後祟りが続いたことから、その霊が各地で祀られることとなりました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代中期の宝暦2年(1752)、土佐藩8代藩主・山内豊敷は、国産問屋を通じた楮や茶の専売制により藩財政の窮乏を打開しようとしました。この専売制の下で問屋に指定された高知城下の御用商人・蔵屋利左衛門は、津野山郷9か村の産物を安く買い叩いたため、百姓たちの大きな反発を招きました。

宝暦5年(1755)、高岡郡檮原村庄屋・中平善之進(善之丞)はじめ津野山郷9か村の庄屋は、連署した上で蔵屋の買付けを停止するよう藩庁に愁訴しましたが、藩は不当の願いとしてこれを退けました。怒った津野山郷の百姓数百人が騒ぎ立て、城下に押し掛け強訴しようとしたため、善之進は自ら単身で藩庁に出向く覚悟を示して彼らの説得に当たりました。

この「津野山騒動」は密告により藩の知るところとなり、同年11月に藩の足軽が津野山郷に派遣され、未遂のまま善之進ら8人が入牢しました。吟味に当たり中平善之進は御用商人の蔵屋利左衛門に非があることを主張したため、宝暦7年(1757)4月17日、藩命による善之進と蔵屋の直接対決が行われ、善之進に反論できなかった蔵屋も入牢の運びとなりました。

そして同年7月26日、藩は中平善之進と蔵屋利左衛門を死罪に決し、蔵屋は執行以前に箸で喉を突いて自害、善之進は神在居長野駄場で斬首され、他の庄屋は追放となりました。村民たちは善之進の首を川西路の地に埋め、碑を建て供養しました。檮原町の「維新の門」向かいの高台に今も残る「中平善之丞進の墓」には「一応唯心居士」の法名が刻まれています。

善之進処刑の日、高知城下は未曾有の暴風雨に襲われ、人々は「善之進時化」と呼んで恐れ、藩主・山内豊敷も城内の小祠に「お城八幡」として善之進を祀ったといわれます。また、藩は宝暦9年(1759)、城下に「訴訟箱」を設けて広く上書を募り、領民からの要望に基づき翌10年(1760)には専売制を仕切っていた「国産改方役所」を廃止しました。

時代は下り、明治19年(1886)の大暴風雨も中平善之進の怨霊の仕業とされ、これをなだめるため翌20年(1887)に善之進の出生地の北川、庄屋を務めた檮原の中間に当たる場所に「風神鎮塚」が祀られました。なお、『高知新聞』(昭和54年11月28日付け)によれば、道路改修工事のため「風神鎮塚」を掘り返したところ、中から壺が飛び出し、あわせてショベルカーの故障などの怪異が続いたということです。

参考文献

『土佐農民一揆史考』(平尾道雄 高知市立市民図書館、1953年)
『東津野村史』上巻(東津野村教育委員会、1964年)

風神鎮塚へのアクセス

名称

風神鎮塚

場所

高知県高岡郡津野町北川地内

備考

国道197号沿いの「高野局前」バス停から100メートル東にあり、付近(道路を挟んで反対側)に両手を開いて民衆を押し留める中平善之進の銅像も建てられている。

関連する他の史跡

中平善之進の墓
中平善之進処刑の地碑

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