義民白田六右衛門顕彰碑(白田六右衛門の義民伝承)

義民白田六右衛門顕彰碑 義民の史跡
飢饉の際に穀倉を開き刑死した庄屋の顕彰碑

元禄2年(1689)、上野国多胡郡多胡村(今の群馬県高崎市)の庄屋・白田六郎右衛門は、飢饉に際して年貢米を独断で百姓に分け与え死罪となったと伝えられます。龍源寺には六右衛門の墓と小祠が祀られ、昭和63年(1988)には「義民白田六右衛門顕彰碑」も建てられました。

広告

義民伝承の内容と背景

江戸時代の元禄年間、上野国多胡郡多胡村を大干魃による飢饉が襲い、百姓は餓死寸前の有り様でした。

これを見かねた庄屋の白田六右衛門は、領主(『吉井町史』では旗本・門奈帯刀ではないかとしています)から預かっていた年貢米を納めた穀倉を開き、米を百姓に分け与えてこの窮乏を救います。

しかしながら、もとより領主の許しを得ずにした行為のために白田六右衛門は捕らえられ、村人たちの助命嘆願も虚しく、元禄2年(1689)5月4日、24歳の若さで龍源寺前のきゅうり畑において死罪となりました。

これより以降、白田家ではきゅうりを作らない習わしとなったほか、地元では白田六右衛門が処刑された場所の近くに藁葺きの祠を建てて密かに供養しました。戦後になって藁葺きの祠から石祠へと改められ、昭和63年(1988)に龍源寺参道に白田六右衛門の顕彰碑が建てられたのを機会に、石祠もその脇に遷されました。

また、白田六右衛門の墓碑は同じく龍源寺境内の白田家墓地にあり、刑死者を示す「刀」の文字を含む「一刀利殺信士」から改められた「寂室相空居士」の戒名が、六右衛門処刑の前年に亡くなった母親「一庭妙槃大姉」の戒名と並んで刻まれています。

これら以外に白田六右衛門の事績を示す古文書などはほとんど存在しておらず、もっぱら口碑として今に伝えられています。

参考文献

『吉井町史』第1巻 通史編(吉井町史編纂委員会 吉井町、1995年)

義民白田六右衛門顕彰碑へのアクセス

名称

義民白田六右衛門顕彰碑

場所

群馬県高崎市吉井町大字多胡776

備考

上信越自動車道「吉井インターチェンジ」から車で3分。曹洞宗龍源寺の山門手前の参道沿いに、六右衛門を祀る石祠とともにあります。

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]