恩田木工民親の墓

恩田木工民親の墓 先賢・循吏の史跡
恩田木工民親の墓

財政改革の試みがことごとく失敗した信濃国(今の長野県)松代藩において、宝暦7年(1757)に勝手方御用を命じられた家老の恩田民親は、「相談」を重視し人心の掌握に努めながら、年貢先納や御用金賦課の中止、博奕や賄賂の禁止、年貢月割上納制の導入などによって改革を実現しました。後に「近世の賢臣」と評価され、長国寺に残る墓は長野市の史跡に指定されています。

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伝承の内容と背景

信濃国松代藩では、たび重なる河川の氾濫や幕府の手伝普請による出費で財政が逼迫したため、地方巧者の田村半右衛門を御勝手役に登用して財政再建を託しました。

ところが、1割5分に及ぶ年貢の増徴をはじめ、御用金さえ支払えば博奕・盗みも勝手次第という乱暴過ぎる新法の発出に領内百姓が反発し、宝暦元年(1751)、半右衛門の身柄引渡しと新法の釈明を求めて約2千人が松代城下に押し寄せる「田村騒動」を招きました。

半右衛門は松代を脱出して江戸に逃亡、藩も強訴に及んだ百姓を処罰せずに主張を認めて新法を撤廃しましたが、この半右衛門は後に江戸で捕らえられて獄死に追い込まれています。

こうした混乱の時期にあって、宝暦2年(1752)に家督を相続した6代藩主・真田幸弘は、宝暦7年(1757)、当時39歳だった最末席の家老・恩田民親(恩田木工もく、恩田杢とも)に勝手方御用を兼務させ、「国許の政道心一杯に取計らひ申すべく候」として、藩政改革の全権を委ねることにしました。

恩田木工の事績を物語風に記した『日暮硯ひぐらしすずり』によれば、彼は「向後虚言を一切言はざるつもり故、申したる儀再び変替致さず候」と、今後は嘘偽りを言わず、一度言ったことは決して変えない旨を家族に、そして藩士や百姓らの前で宣言したほか、食事の際は飯と汁物以外の副菜は食べず、新たに仕立てる着物には粗末な木綿を用いるなど、自ら質素倹約に努めて範を示しました。

また、年貢未納の者を城中に集めて今後の完納を約束させる一方、「未進するといふは、よくよく貧にて内証に物なき故の事なるべし」と困窮事情を慮ってこれまでの年貢の未納分を免除したため、百姓も「得心にて満足」したといいます。

このほか、これまで藩が徴収した年貢の先納分や御用金は返済しないとする一方で、交換条件として以後の年貢先納や御用金の賦課を中止したり、領内での博奕行為や役人の賄賂を禁止したり、年貢の月割上納制を新たに設けるといった、数々の改革を断行しました。

役人から百姓まで、相手の身分にかかわらず対話を重視する恩田木工の姿勢は広く支持され、『日暮硯』には「公の御勝手も忽ち直り、五箇年たゝぬ間に大分御金出来して、御領分も豊に相り、諸人歓楽に暮すとかや」と、財政再建に成功した様子が描かれています。

もっとも、年貢の月割上納制は田村半右衛門以前に藩政改革を取り仕切っていた家老・原八郎五郎の時代から既に行われており、恩田木工が創始したものとはいえないなど、『日暮硯』の記述は史実と相違し誇張されたものであるとの指摘もあります。

宝暦12年(1762)、恩田木工は惜しくも46歳で病死し、長国寺に葬られて墓が建てられましたが、松代藩士の小松成章は『春雨草紙』の中で「近世の賢臣たるべし」と評し、死去に当たっては「誰が教ふるともなしに、松などとり入れ、うたひもの、ものの音をも遏密あつみつして、ひそまりゐたりける」と、領民が自発的に松飾りや歌舞音曲を停止して哀悼の意を表したことを記しています。

参考文献

『日暮硯』(恩田木工著、西尾実・林博校註 岩波書店、1941年)
『更級埴科地方誌』第三巻近世編上(更級埴科地方誌刊行会編 更級埴科地方誌刊行会、1980年)
『長野県史』通史編 第五巻近世ニ(長野県編 長野県史刊行会、1988年)

恩田木工民親の墓へのアクセス

名称

恩田木工民親の墓

場所

長野市松代町松代1015-1

備考

「恩田木工民親の墓」は、真田家菩提寺である「長国寺」境内北側の墓地内にあり、宝篋印塔形式で、墓前に史跡の標柱が設置されています。上信越自動車道「長野インターチェンジ」から車で5分、JR長野駅からはアルピコ交通バス(松代行)に乗車し「松代駅前」バス停下車、徒歩10分です。

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