生田万の墓碑(生田万の乱)

生田万の墓碑 義民の史跡
生田万の乱を起こした国学者の墓碑
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天保8年(1837)、大坂で起こった「大塩平八郎の乱」に触発され、天保の飢饉による惨状を憂いた国学者・生田万が同志を募り、越後国柏崎町(今の新潟県柏崎市)にあった桑名藩の柏崎陣屋を襲撃しました。この「生田万の乱」は長岡藩の加勢により鎮圧され、生田万も切腹して果てましたが、乱後に米価が引き下げられたことから義人とされ、墓碑や顕彰碑が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の「天保の大飢饉」では全国的に多くの餓死者が出ましたが、桑名藩の飛地であった越後国刈羽郡柏崎町の周辺でも「山方にては葛(くず)之根などを喰ひ、小児をば川へ流し申候」という惨状が生じていました。しかし、豪商や陣屋役人たちは結託して米の買占めを進め、そのために米価が高騰して庶民の暮らしはますます厳しくなるばかりでした。

柏崎で私塾・桜園塾を開いていた国学者の生田万は、同じ頃に「救民」の旗を掲げて大坂で反乱を起こした大塩平八郎に触発され、天保8年(1837)5月30日、尾張浪人で神道無念流の師範・鷲尾甚助や水戸浪人の鈴木誠之助ら同志5人とともに荒浜村(今の柏崎市)庄屋の新兵衛宅を襲撃し、金品を奪って村民に分け与えると、さらに人を募って船で柏崎へと向かいます。

生田万はもともと上野国(今の群馬県)館林藩の出身であり、平田篤胤の私塾である「気吹舎」の塾頭を務めるほどに将来を嘱望されていましたが、館林藩主に自著『岩にむす苔』を提出して藩政の腐敗を批判したために追放され、その後は諏訪神社の神官・樋口英哲(てるもと)の招きによって柏崎に移住していました。

「奉天命誅国賊」の旗を掲げた一行は、6月1日に桑名藩の柏崎陣屋を襲撃し、一時は柏崎の町が大混乱に陥りますが、長岡藩の加勢もあって同志たちは次々と倒され、生田万自身も負傷したために海岸で切腹して果てました。また、乱後に捕らえられた生田万の妻・鎬も、獄中で2児を絞殺した後、「烈女不更二夫」と題した辞世の句を残して自害しており、「誠にけなけなる致方」と当時の人々を感嘆させています。

この「生田万の乱」に恐れをなした豪商たちは米の小売価格を引き下げ、陣屋でも飢人扶持米を賑恤したことから、後に義人として讃えられるようになり、明治32年(1899)、戊辰招魂所の片隅に「生田万の墓碑」が、また八坂神社境内にも「生田万先生神道碑」が建てられました。

参考文献

『新潟県史』通史編5(近世3)(新潟県 新潟県、1988年)
『柏崎市史資料集』近世篇2下(柏崎の近世史料(産業・騒動・交通))(柏崎市史編さん委員会編 柏崎市史編さん室、1985年)

生田万の墓碑の地図とアクセス

名称

生田万の墓碑

場所

新潟県柏崎市学校町1642番地

備考

北陸自動車道「柏崎インターチェンジ」から車で10分。柏崎小学校に隣接する国道352号沿いにある。

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