義民の史跡義少年合同の碑(二義少年と恋路・七房村水論) 江戸時代前期の寛文年間、周防国恋路村(今の山口県山口市)の2人の少年が、旱害に悩む村人のために宮野川上流の井手を切り、無断で川の水を村の水田まで引き入れました。この一件は上流の村との水論となって容易に解決を見なかったため、2少年は長州藩主・...2023.04.28義民の史跡
義民の史跡二義少年碑(松原清介と長野村百姓一揆) 長州藩の益田氏給地となっていた周防国長野村(今の山口県山口市)は重税や課役に苦しみ、代官に訴えても叱責を受けるのみでした。そこで宝永7年(1710)、庄屋の子である松原清介と友人の常田角左衛門が藩主に直訴し、願意は認められたものの、2少年と...2023.04.29義民の史跡
義民の史跡天保大一揆発祥之地碑(吉部村弥右衛門と防長大一揆) 天保2年(1831)、長州藩の専売制強化などへの不満から、周防・長門(今の山口県)両国の約10万人が参加する全藩一揆「防長大一揆」が発生し、各地の庄屋宅などを打ちこわして回りました。一揆は藩兵により鎮圧され、吉部村畔頭・片山弥右衛門らが誅罰...2023.05.04義民の史跡
義民の史跡浮石義民墓所(藤井角右衛門と浮石義民事件) 宝永7年(1710)、凶作下で年貢の厳しい取立てを続けた長府藩筆頭家老の椙杜家に対抗し、長門国豊浦郡浮石村(今の山口県下関市)では給庄屋・藤井角右衛門を中心とする5人が幕府巡検使に年貢減免の直訴を行いました。訴願の趣旨は聞き届けられ、年貢は...2023.05.13義民の史跡
義民の史跡建立寺(北野孫兵衛と山代慶長一揆) 慶長13年(1608)、長州藩の慶長検地と高率な年貢に対する反発から、周防国玖珂郡本郷村(今の山口県岩国市)庄屋・北野孫兵衛ら11人を中心とする「山代慶長一揆」が起こり、年貢は引き下げられたものの、11人全員が引地峠で磔となりました。これら...2023.05.12義民の史跡
義民の史跡源右衛門・市三郎の墓(小和田組源右衛門と恵蘇郡一揆) 天明6年(1786)、備後国(今の広島県)恵蘇郡で飢饉と村役人の不正を理由に百姓が蜂起し、およそ5千人が山王原に集結しました。広島藩が願書を受け取り年貢減免などを約束したため解散しましたが、後に頭取として小和田組源右衛門らが獄門となりました...2023.04.30義民の史跡
義民の史跡富貴神社(吉松仁右衛門父子冤罪一件) 江戸時代中期のこと、石見国柳村(今の島根県鹿足郡津和野町)の蔵方・吉松仁右衛門は、上納紙を巡る庄屋の不正を代官に告発し、藩主にも直訴しようとして津和野城下に至りました。仁右衛門は延享2年(1745)に処刑されますが、以後城下で火災が相次いだ...2023.05.05義民の史跡
義民の史跡定藤仙助の墓(定藤仙助と明和一揆) 明和7年(1770年)、備後国(今の広島県)福山藩領で凶作下での年貢増徴に反対する「明和一揆」が起こりました。結果として借米の年賦払いなどの要求が認められたものの、下竹田村庄屋・定藤仙助らが打首獄門となりました。地元には処刑者を供養する墓碑...2023.04.24義民の史跡
義民の史跡素盞嗚神社(徳永徳右衛門と福山藩天明一揆) 天明6年(1786)、備後国(今の広島県)福山藩領では、地方巧者・遠藤弁蔵の重税路線に耐えかねた百姓が蜂起し、年末にいったん沈静化するものの翌年になって再燃、庄屋宅の打ちこわしや隣藩・岡山藩への越訴を行いました。この「福山藩天明一揆」では、...2023.05.10義民の史跡
義民の史跡義人吉左衛門の碑(有田村吉左衛門と広島藩享保一揆) 広島藩では5代藩主・浅野吉長の時代、豪農を所務役人や頭庄屋に任命し、定免制を採用するなどして農村支配の強化を図りました。こうした「正徳新格」に反発し、享保3年(1718)には安芸・備後両国(おおむね今の広島県)にまたがる30万人規模の「享保...2023.05.11義民の史跡
義民の史跡首なし地蔵(牧の徳右衛門と山中一揆) 享保11年(1726)、津山藩主が夭折し減封が見込まれる中、大庄屋や藩役⼈が郷蔵の米を持ち出そうとした事件を契機として、この翌年にかけて美作国山中地方(今の岡山県北部)で4千⼈規模の惣百姓⼀揆「山中一揆」が発生します。津山藩は武力鎮圧の方針...2023.05.10義民の史跡
義民の史跡新本義民碑(義民四人衆と新本義民騒動) 享保3年(1718)、岡田藩に入会山を接収された備中国下道郡新庄村・本庄村(いずれも今の岡山県総社市)の百姓惣代4人が江戸に出向いて藩主・岡田長救に直訴し、入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、4人は飯田屋河原で死罪となりました。この「新...2023.06.09義民の史跡