法界平等碑(永田隆三郎と弘化大一揆)

法界平等碑 義民の史跡
法界平等を唱えた一揆指導者が建てた碑

弘化4年(1847)、肥後国(今の熊本県)天草地方で一種の徳政令に当たる「百姓相続方仕法」の延長を巡って1万5千人規模の「弘化大一揆」が発生し、「銀主」と呼ばれる高利貸しの屋敷などが打ちこわしに遭いました。この一揆では天草郡古江村(今の天草市)庄屋・永田隆三郎らが頭取として処刑されましたが、現地には隆三郎が建立した「法界平等碑」などの遺跡が今でも残されています。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代の終わりには度重なる飢饉や年貢の増徴で農村の疲弊が激しくなったといわれますが、肥後国天草郡も同様の状況でした。

特に天草では「島原の乱」による人口減少を他領からの移民で埋め合わせたため、石高に対して人口が過大であり、零細農家が借金のために質入れした土地が質流れで「銀主」と呼ばれる豪商に集約され、ますます貧富の格差が拡大していました。

こうした中で、寛政4年(1792)、寛政8年(1796)と相次いで天草郡の幕府領に「百姓相続方仕法」と呼ばれる一種の徳政令が発布され、元の持主が質地を無利息で請け戻せること、借用期間10年以内の借金は元金のみの20年賦払いが可能なことなどが定められました。

「百姓相続方仕法」は時限立法に当たるため、期限切れの天明から弘化年間にかけて、村々でも再公布を要求する動きが高まり、御領組大庄屋・長岡五郎左衛門興就らが百姓の利害を代表して富岡代官所(今の天草郡苓北町)に願い出るものの聞き届けられませんでした。

弘化2年(1845)、五郎左衛門は江戸に上って幕府老中・阿部正弘の登城時に駕籠訴を行い、結果として翌年に新たな「天草百姓相続方仕法」が公布されますが、以前に比べると内容が不十分な上、自身も入牢を申し付けられる有り様でした。

これに憤慨した天草郡26か村の百姓たちは、弘化4年(1847)正月28日、栖本組古江村庄屋・永田隆三郎を頭取として、「島原の乱」の再来といわれる1万5千人規模の「弘化大一揆」を引き起こし、6日間にわたって高利貸しをしていた「銀主」の屋敷を打ちこわして回りました。

この一揆が特徴的なのは、読経などの功徳が生きとし生けるものすべてに行き渡るようにと祈願する趣旨の仏教用語「法界平等」の思想が根底にあるところで、身分や門地の差別を排除する今日的な人権思想にもつながるものと評価されています。

しかしながら、一揆が鎮圧された後には多くの百姓が捕らえられて獄舎につながれ、特に永田隆三郎は一揆の頭取として嘉永2年(1849)2月2日に獄門に処せられ、長岡興就も入牢の上「乱心」として大庄屋の職を免じられており、この混乱の中でほどなくして明治維新を迎えることになります。

現地には一揆に先立つ文政11年(1828)、古墳の被葬者を弔う目的で永田隆三郎が建立した「法界平等碑」が残されており、その題字は隆三郎の自筆といわれます。

また、代々の古江村庄屋の家系だった永田隆三郎が刑死した後、古江村庄屋職は栖本組大庄屋の兼帯を経て、妻の実家である益田家に引き継がれており、永田家・益田家の共同墓地に隆三郎の墓が建てられているほか、他にも多くの顕彰碑が見られます。

参考文献

『栖本町誌』(栖本町誌編さん委員会編 栖本町、2006年)
『天保期の人民闘争と社会変革』下(百姓一揆研究会 校倉書房、1982年)
『天草の史跡文化遺産』(鶴田文史編著 天草文化出版社、1971年)

法界平等碑へのアクセス

名称

法界平等碑

場所

熊本県天草市栖本町古江字沖ノ瀬地内

備考

国道266号の南500メートル、海岸近くの沖の瀬古墳群の中の墳丘上に建っている。150メートルほど離れて東西に2か所ある。

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