天保義民之碑(天保義民と見立て願出事件)

天保義民之碑 義民の史跡
年貢を巡り一家で流刑となった肝煎らを悼む

天保9年(1838)、加賀国石川郡(今の石川県)・越中国砺波郡(今の富山県)の肝煎らが凶作を理由に秋縮御請を拒否し、奉行による見立てを願い出たところ、奉行は肝煎ら村役人15人を投獄し拷問を加えた上、獄死せず生き残った10人とその家族113人を雪深い越中国五箇山(今の富山県南砺市)の地へと流刑に処しました。明治時代に彼らを顕彰する「天保義民之碑」が建てられました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代の加賀藩では、二百十日(立春から数えて210日に当たる稲の開花期)の頃に十村(他藩でいう大庄屋)が各村を巡回して作柄を調査した上で、肝煎ら村役人を集めて年貢の上納を誓約する請書に捺印させる「秋縮御請(あきじまりおうけ)」が行われていました。

天保9年(1838)、加賀藩領の石川・砺波両郡の肝煎たちが、凶作を理由にこの秋縮御請を拒否し、奉行による再度の見立てを求める事件が起こりました。そこで改作奉行・名越彦右衞門は8月26日に突如として石川郡南新保・西念新保・下安江の各村(いずれも今の石川県金沢市)を巡行し、被害の程度は大きくなく、偽りの願い出をしたとしてこれらの村の肝煎・組合頭ら15人を投獄するとともに、他の18か村の肝煎をも呼び出して年貢上納を誓約する請書を提出させました。

これら15人のうち5人は獄死し、残り10人は11月末に出獄するものの、翌天保10年(1839)2月下旬、郡奉行の命により持高1,027石と家財を没収された上、家族や縁者113人とともに雪深い五箇山の地へと流刑になりました。彼らが帰村を許されたのは実に9年後の弘化4年(1847)のことで、この間に16人が亡くなっています。

大場芳朗著『天保義民と加賀藩の農政』は、最初に獄死した西念新保村の組合頭・安右衛門について、犀川河原に薦を被せて放り出されていた遺体を家族が引取りに行ったところ「身体のあちこちから血がにじみ出ており、口からも血が吹き出ていた」と、当時の拷問の凄まじさが後々まで親族の間で語り伝えられていたことを記しています。

明治30年(1897)になって、肝煎ら15人を「天保義民」として顕彰する運動が沸き起こり、同年12月に「天保義民之碑」を金沢停車場(金沢駅)前に建立するための工事が起工し、翌年8月1日に完工、盛大な除幕式が行われました。碑の題字は旧幕府の重鎮として知られる勝海舟が揮毫し、仏教学者の南條文雄(ぶんゆう)が撰文しています。なお、大正7年(1918)に駅前の混雑を離れて西念新保町に移転し、さらに平成4年(1992)には駅西中央公園内の現在地へと移転しています。

また、多数が流刑となった五箇山の田向集落には、当時を偲ぶ「流刑小屋」が復元されているほか、付近の住吉神社境内にも平成12年(2000)に新たな「天保義民之碑」が建立されています。

参考文献

『金沢市史』通史編2 近世(金沢市史編さん委員会編 金沢市、2005年)
『天保義民と加賀藩の農政』(大場芳朗 天保義民顕彰保存会、1966年)
『打ちこわしと一揆』(川良雄 石川県図書館協会、1958年)
『石川県史』第弐編(石川県編 石川県、1928年)

天保義民之碑へのアクセス

名称

天保義民之碑

場所

石川県金沢市西念1丁目11番街区

備考

北陸自動車道「金沢東インターチェンジ」から車で10分。「駅西中央公園」の敷地北西側に建つ。他の史跡は流刑地である南砺市の五箇山地方に所在している。

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