遺跡義民佐七一族累代之墓(義民腹切り佐七の伝承)

遺跡義民左七一族累代之墓 義民の史跡
飢饉に際して郷蔵を開き切腹したという庄屋の墓
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江戸時代の享保年間、常陸国那珂郡三反田村(今の茨城県ひたちなか市)庄屋の平沢佐七は、飢饉に際して水戸藩の郷蔵を無断で開放し、百姓に穀物を分け与えた上で切腹したといいます。佐七の塚には明治時代に霊堂が建てられ、現在は寺院となっています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の享保年間、水戸藩領内の常陸国那珂郡三反田村では冷害と風水害が激しく、特に那珂川の河口付近に位置することから浸水の被害も甚大でした。

こうして三反田村では飢饉が起こったため、庄屋の平沢佐七(姓は谷田部だったともいわれるが定かではない)は重代の家宝を売り払うなどして私財を投じて農民を救い、藩に対しても常平倉(郷蔵)を開放するように嘆願しますが、その趣旨が聞き届けられることはありませんでした。

そこで庄屋佐七は藩に無断で郷蔵を開放し、中にあったヒエを農民に分け与えますが、大罪であることは明らかなため、妻と長男の市之介、他に2人の女子の家族4人を殺害(無理心中)の後、自らは切腹してその責を負い、「腹切り佐七」の伝説が生まれたといいます。

佐七が切腹した場所にはほどなく墓が営まれたものの、歴史の中で忘れ去られ、再び佐七の墓が見出されたのは明治時代になってからのことです。

明治時代、日露戦争で出征した息子を案じる地元の老婆の夢枕に佐七が立ち、信心をすれば命が助かるとのお告げがあったため、佐七の墓参りを欠かさなかったところ、息子が負傷だけで復員してきたことから、にわかに信仰を集めるようになりました。

明治40年(1907)には村山妙種という尼僧によって霊堂が営まれ、戦後は日蓮宗の佐七山福道寺となり、現地には二百五十回忌を機会に新しい供養塔が建てられ、佐七霊神として崇められています。

なお、『勝田市史』では、佐七が享保年間に三反田村に実在したことは史料により明らかとしながらも、切腹という時代がかった演出や顕彰されはじめた時期が明治時代と比較的新しいことを理由として、「史実としてはこの伝承には、はなはだ問題がある」と評しています。

参考文献

『那珂湊市史料』第1集(那珂湊市 那珂湊市、1975年)
『勝田市史』中世編・近世編(勝田市史編さん委員会 勝田市、1978年)
『勝田市史』民俗編(勝田市史編さん委員会 勝田市、1987年)
『はやり神と民衆宗教』(宮田登 吉川弘文館、2006年)

遺跡義民佐七一族累代之墓の地図とアクセス

名称

遺跡義民佐七一族累代之墓

場所

茨城県ひたちなか市三反田5161

備考

東水戸道路「ひたちなかインターチェンジ」から車で5分。佐七山福道寺の境内にあり、茨城県道38号那珂湊那珂線沿いに参道入口の看板が立っている。

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