九兵衛地蔵(西原九兵衛と飯山騒動)

九兵衛地蔵 義民の史跡
無実の罪を訴えつつ獄門となった豪農を祀る
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天保8年(1837)、信濃国(今の長野県)飯山藩領の百姓が豪農の屋敷を打ちこわすとともに年貢減免を藩庁に要求する「飯山騒動」が起こりました。飯山藩では多くの百姓を捕らえて拷問により白状を引き出し、「無実之罪」を主張する水内郡浅野村(今の長野市)の豪農・西原九兵衛を獄門としています。かつての処刑場近くには九兵衛を供養する「九兵衛地蔵」が残ります。

義民伝承の内容と背景

江戸時代後期の信濃国水内郡浅野村は飯山藩領でしたが、藩主・本多助賢が幕府若年寄の要職にあって出費が嵩み、全国的な「天保の飢饉」の最中での暴風雨による不作と米価騰貴もあいまって、多くの百姓が重税に喘いでいました。

これに加えて、浅野村庄屋の唯右衛門が村の経費を私的に使い込んで負債を重ねた疑惑が持ち上がり、次郎兵衛や仙右衛門ら小前百姓からの追及で辞職に追い込まれる村方騒動も発生していました。

天保8年(1837)12月23日、蜂起を促す落とし文が村々にもたらされ、赤塩村(今の上水内郡飯綱町)八幡原で法螺貝が鳴ったのを合図に、百姓たちが続々と静間村(今の飯山市)五位野原に押し寄せました。

百姓たちは年貢減免などを求め、豪農の屋敷などを打ちこわしながら飯山城下に迫りますが、藩命を受けて騎馬で駆けつけた僧侶らが「願いの趣きは聞き届けたり」と説得に当たったために解散を決めました。

ところが、説得にあった願いを聞き届けるとの約束に反し、藩は直ちに首謀者の探索を開始し、次郎兵衛・仙右衛門はじめ多くの百姓を捕らえて拷問し、自白を引き出そうとしました。

一方、浅野村きっての豪農で藩御用達として苗字帯刀を許されていた西原九兵衛も打ちこわしの被害に遭っていますが、なぜか一揆の首謀者の嫌疑を受けて牢に入れられ、80貫の石抱きの拷問の末に「私頭取致候」と白状させられました。

九兵衛の獄中からの手紙には、自らの罪を軽くするために次郎兵衛や仙右衛門が九兵衛の手下として一揆を起こしたと虚偽の自白をしたこと、九兵衛自身も拷問に耐え切れず自白して「無実之罪」に陥れられ、親や先祖に申し訳なく「残念」と思っていることなどが書かれています。

九兵衛の家族親類一同も「無実之罪之義は明ラカニ御座候」として、上野寛永寺林光院を通じた江戸藩邸への嘆願や評定所目安箱への箱訴などの赦免運動に奔走しますが、ついにその努力が実を結ぶことはありませんでした。

天保10年(1839)1月26日朝六ツ時(6時頃)、56歳の西原九兵衛は千曲川べりの刑場で打首となり、その首は獄門として3日にわたって晒され、次郎兵衛や仙右衛門も永牢となりました。

その際の判決書によれば、九兵衛は前庄屋・唯右衛門がつくった負債の損失補填金を出し渋り、一揆が起きれば先延ばしにできると思い、次郎兵衛や仙右衛門を唆して「徒党強訴」に及んだとされており、藩の御重恩を蒙りながら私欲に走ったことは「別て不届至極」であるから獄門に行うとされています。

九兵衛の処刑については、次郎兵衛らの口書(供述調書)どおり九兵衛が一揆の黒幕として暗躍していたという説のほか、天保9年の九兵衛逮捕の際に役人が借金証文を没収したことを理由に、藩及び家中が九兵衛から受けた借金を一挙に帳消しにしようとして冤罪を捏造したという説まであります。

いずれにしても入牢した時点で九兵衛を一揆の頭取に仕立て上げる筋書きはできており、九兵衛も処刑に先立って「清濁の分わからぬ娑婆をけふ立て弥陀之浄土に清める宇れしさ」という、正邪曲直の区別もままならない世の中への無念をにじませた辞世の句を詠んでいます。

かつての飯山藩処刑場近くの街道沿いには「九兵衛地蔵」と呼ばれる地蔵尊があり、これは西原九兵衛の供養のために天保11年(1840)3月に建てられたものといわれます。

参考文献

『実説信州飯山騒動』(西原三郎 飯山騒動刊行会、1972年)
『近世の民衆と都市―幕藩制国家の構造』(北島正元 名著出版、1984年)
『豊野町誌』2(豊野町誌刊行委員会編 豊野町誌刊行委員会、2000年)

九兵衛地蔵の地図とアクセス

名称

九兵衛地蔵

場所

長野県飯山市静間地内

備考

上信越自動車道「豊田飯山インターチェンジ」から車で10分。北畑交差点を東に50メートル進んだ道路沿いにあり、案内板も設置されている。

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