宝永6年(1709)、松波勘十郎を登用して宝永改革を進める水戸藩では、運河開削の労役や賃金未済を巡る百姓の不満が爆発し、支藩・守山藩への強訴が発生しました。この「水戸藩宝永一揆」では、常陸国茨城郡上吉影村(今の茨城県小美玉市)庄屋・市毛藤衛門と奉行との直接対決で農民側が勝利し、松波も失脚して改革中止が決まりました。現地には宝永改革の徒花となった「勘十郎堀」の遺構が今でも残されています。
勘十郎堀へのアクセス
名称
勘十郎堀
場所
茨城県東茨城郡茨城町城之内地内
備考
東関東自動車道「茨城空港南インターチェンジ」から車で5分。茨城県道50号水戸神栖線の「茨城町指定史跡勘十郎堀跡」という標識を頼りに進むと、町道沿いに教育委員会が建てた案内板を見ることができます。町道をさらに150メートル西(小幡養鶏場の入口付近)に進むと見学者用の駐車場も用意されています。
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項目21 勘十郎堀(50~51ページ)内容写真、アクセス、人名解説(市毛藤衛門)、義民伝承とその背景、周辺の関連史跡(六部塚、市毛藤衛門墓碑)、案内地図、参考文献
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義民伝承の内容と背景
水戸藩では3代藩主・徳川綱條(つなえだ)の頃になると、2代藩主・徳川光圀がはじめた修史事業(『大日本史』編纂)や江戸藩邸の焼失などで出費がかさみ、財政的に窮乏するようになりました。
そこで綱條を中心として「宝永の新法」「宝永改革」などと呼ばれる一連の財政改革がスタートしますが、宝永3年(1706)9月に客分として松波(並)勘十郎良利が300人扶持で招かれて以降にそれが本格化します。
松波勘十郎については不明な点も多いながら、美濃国加納藩(今の岐阜県岐阜市)の奥田家の出身で、同国の松波文右衛門のもとに養子に入って加納宿庄屋となり、その後は諸国をめぐって上総大多喜藩、大和郡山藩、備後三次藩、陸奥棚倉藩などの財政改革を次々と請け負った、当時「勘者」と呼ばれて重宝された財政家にあたります。
松波勘十郎は役所の廃止、年貢増徴などの改革を次々に進めますが、とりわけ中心となったのは、北浦と涸沼を結ぶ「紅葉運河」、涸沼と太平洋を結ぶ「大貫運河」の開削でした。
当時の水戸藩では太平洋に開けた那珂湊(今の茨城県ひたちなか市)から那珂川、涸沼川を遡って涸沼に出て、対岸の海老沢河岸(今の茨城県東茨城郡茨城町)に至るまでの水運が確保されていましたが、涸沼から北浦までは積み替えをして陸路で輸送しなければなりませんでした。
そこで、海老沢から北浦に注ぐ巴川沿いの紅葉まで約8キロの「紅葉運河」を開削して陸路輸送を回避するとともに、涸沼川と那珂湊の南にあたる大貫海岸(今の茨城県東茨城郡大洗町)とを直接結ぶ約1キロのショートカット「大貫運河」をつくることで、年貢廻米の効率化および「津役銭」と呼ばれる通行税の徴収による藩財政の潤沢化を図ろうとします。
この掘割工事にはのべ130万人の農民が動員されたといいますが、もともと涸沼と巴川の水位差が大きかった上、途中の内陸のルートは火山灰層である関東ローム層の台地のために法面が崩壊し、海岸部も漂砂ですぐに埋まってしまうなど、使い物にならないありさまでした。
それ以上に問題となったのが工事における農民の酷使や賃金の不払いで、特に藩札発行が幕府により禁止されてしまったこと(「宝永の札遣い停止令」)も大きく影響しており、後に「水戸藩宝永一揆」の訴状に「駄賃一切下されず候事」「人夫当座に死に失せ申候」などの非違行為が記される原因となりました。
ほかにも松波は領内に密偵を放って反対者を取り締まっており、浜街道沿いの宿場町があった田彦村(今の茨城県ひたちなか市)で副業として歩行夫(かちぶ:運送業者)をしていた百姓・又六は、密偵と知らずに美濃部又五郎という旅の武士に気を許して「改革で国中が困窮して蝉の抜け殻のように空っぽだ」と話して非難したために役所に出頭を命じられ、名主の屋敷牢に押し込められています。
このような状況の中で、宝永5年(1708)には郡奉行・清水仁(右)衛門清信に対して年貢減免や賃金支払いをめぐる農民からの訴えがありますが、この清水仁衛門は「勘十郎同心の者」といわれる腹心の部下だったため、当然ながらいっさい取り上げてもらえることはありませんでした。
そこで「袋廻文」(袋に入った決起文)が国中をめぐり、宝永5年(1708)から翌年にかけて、水戸藩の全藩にわたる大規模な一揆「水戸藩宝永一揆」が勃発、多数の農民が江戸に上る事態となります。
宝永6年(1709)正月にはいったん登城途中で待ち伏せしての藩主への直訴(駕籠訴)が企てられますが、不穏を察知した藩側によって登城ルートが変更されて失敗に終わり、その後農民1,500人が水戸藩の支藩である守山藩の江戸藩邸に門訴して訴状が受理され、水戸藩へと回付されました。
水戸藩では奉行・師岡与左衛門綱治らが勘定所において農民の代表者である上吉影村(今の茨城県小美玉市)庄屋の市毛藤(右)衛門と折衝していますが、農民側では傘連判状をつくって要求項目を箇条書きにしており、これによれば松波勘十郎・清水仁衛門両名の罷免、年貢その他の夫役などの負担軽減、未払い賃金の支払い、田彦村又六の釈放などを強く求めています。
折衝は当初難航していましたが、折しも上野寛永寺での5代将軍・徳川綱吉の葬送が正月28日に予定されており、農民が実力行使に出て騒ぎが大きくなれば、運河のルートにあたる守山藩領の鹿島郡城之内村を勝手に水戸藩領に付け替えていたことが幕府に知れるおそれがあったことから、藩は27日になって突然、松波・清水の罷免と改革の中止を決めて翌日早朝に農民側に伝達し、江戸に集結していた農民たちは残らず帰村することになりました。
水戸藩では松波勘十郎父子を追放、清水仁衛門を改易するとともに、老中・島村言行に蟄居を命じるなど関係者の処罰を進め、あわせて半年がかりで主な制度を改革以前に戻して事態の収拾を図っています。松波勘十郎についてはこれだけでは終わらず、追放されていた京都から江戸に戻ったところを勝衛門・仙衛門の息子2人とともに捕らえられて水戸の赤沼獄に入牢させられ、宝永7年(1711)11月に獄死しています。
このように「水戸藩宝永一揆」は他の一揆とは異なり、死罪などの農民側の犠牲者を出さずに要求を貫徹させたところが特徴的であり、市毛藤衛門自身が記した『御改革訴訟』や、これをベースにしたとみられる『宝永水府太平記』『宝永太平記』などの記録が写本となって流布しています。
もっとも、実際に農民の犠牲を出さなかったのかどうかについては疑問の余地がないわけではなく、藤衛門とともに行動した久慈郡小沢村(今の茨城県常陸太田市)庄屋・岡部治衛門をはじめとする水戸藩北領の庄屋8人衆はついに帰村せず、地元で「身代わり地蔵」を建てて供養したことが、庄屋の子孫に言い伝えとして残っているとのことです。
また、当時開削された運河は「勘十郎堀」と呼ばれ、今でも現地にその遺構が残されており、茨城町指定文化財となっているほか、東関東自動車道水戸線の建設にともなう発掘調査も一部で行われています。
参考文献
『茨城百姓一揆』(植田敏雄 風濤社、1974年)
『宝永一揆 水戸藩を揺がせた百姓たち』(江川文展 筑波書林、1981年)