川合伊左衛門・川合久右衛門之碑(義民伊左久右の伝承)

川合伊左衛門・川合久右衛門之碑 義民の史跡
百姓困窮を救おうとした2人の庄屋の顕彰碑

天和元年(1681)、不漁・不作による困窮から三河国渥美郡中山村(今の愛知県田原市)庄屋の河合伊左衛門らが御領林の立木払下げを領主の旗本・清水権之助に直訴し、代官の讒言で斬罪となりました。地元では「義民伊左久右」と崇められ、後に石碑も建てられました。

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義民伝承の内容と背景

天和元年(1681)、旗本・清水権之助の知行所だった三河国渥美郡中山村では凶作と不漁のために百姓が困窮し、大庄屋の河合伊左衛門と小庄屋の河合久右衛門らが西山の立木の枝打ちと下草刈りを代官・結城兵左衛門に訴願するものの認められませんでした。

そこで両人は密かに江戸に上り、百姓に同情した浜田市郎右衛門という役人の入れ知恵により家老の志満津五郎太夫に訴えたところ、下草刈りなどの許可を得ることができました。

ところが地元の百姓は伐採した立木の払下げがなければ凶作と不漁の補填にならないと反発し、2人は再度領主に直訴するために江戸に上りました。

結城代官は江戸に飛脚を走らせ、庄屋の訴えは百姓の総意ではなく私利私欲を図るためのものと讒言し、ために伊左衛門は詮議のため江戸に留め置かれ、久右衛門のみ単身国許に戻りました。

帰村した久右衛門は待ち受けていた代官に妻子ともども捕らえられ、江戸の伊左衛門も久右衛門の冤罪を晴らすため急遽帰村することになりました。

村人の不穏な状況を察知した伊左衛門は、妻子を金蓮寺(今の愛知県西尾市)に預けて伊勢に逃れようとするものの、渡海前に捕縛されて江戸に送られ、天和2年(1682)に江戸表で斬罪、同じく久右衛門も中山代官所で斬罪に処せられたといいます。

その後、邪魔者が消えた中山では代官が年貢を私物化して苛斂誅求やまず、検地のため訪れた役人の岡部六郎をも殺害して証拠湮滅を図ったため、岡部六郎の子・健次郎と河合伊左衛門の子・丈之助が領主の許しを得て仇討ちを果たしたということです。

このことがあって以降、志満津氏の下僕・定平の夢枕に河合伊左衛門と久右衛門が現れ、「村人の犠牲になったのに誰も供養せず無念なので虫になって作物を荒らす」と告げたことから、村人らは虫祭と称して2人のために施餓鬼供養を行い、村の地主神にも祀って崇めました。

このような伝説をもつ河合伊左衛門・久右衛門は今でも地元で「義民伊左久右」として知られていますが、『愛知県史』では小説的な要素が多く、真実と虚構の区別が付けにくいとしています。

参考文献

『渥美郡史』(愛知県渥美郡 愛知県渥美郡、1923年)
『愛知県史』第二巻(愛知県編 愛知県、1938年)

川合伊左衛門・川合久右衛門之碑へのアクセス

名称

川合伊左衛門・川合久右衛門之碑

場所

愛知県田原市中山町寺脇99番地

備考

東名高速道路「豊川インターチェンジ」から車で80分、ぐるりんミニバス「寺脇」バス停向かいの西湖院山門手前にある。

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