伝蔵地蔵(眼目屋与左衛門の義民伝承)

伝蔵地蔵 義民の史跡
給人蔵を開き生埋めにされたと伝わる町人を祀る

江戸時代、越中国新川郡東水橋村(今の富山県富山市)の米商人・眼目屋与左衛門が飢饉の際に給人蔵を勝手に開放して米を分け与え、生埋めの刑に処せられたと伝わっています。後に人々は供養のために「伝蔵地蔵」を祀りました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代の頃、常願寺川と白岩川は途中で合流して水橋川となっており、富山湾に注ぐ河口付近は廻船業で栄えていました。

このように水橋川周辺は水運の利便性がよいことから、加賀藩の年貢米を保管する水橋御蔵や藩士の扶持米を保管する給人蔵が置かれ、勝嶋屋市郎右衛門ら4人の町人が蔵宿として厳重に管理していました。

あるとき飢饉が発生しますが、越中国新川郡東水橋村の米商人・眼目屋与左衛門は、人々を救おうとして勝嶋屋市郎右衛門が管理していた給人蔵を無断で開放し、そこに保管されていた新川郡塚越村(今の中新川郡立山町)が納入した藩士・入江定蔵の知行米を処分してしまったため、生埋めの刑に処せられたといいます。

これを知った人々は与左衛門に感謝して延命地蔵尊を造立して供養しますが、その地蔵がたまたま狐塚屋伝蔵の屋敷前にあったことから、後に「伝蔵地蔵」と呼ばれるようになりました。

あるいは幕末の飢饉の際に米商人の高田屋伝蔵が給人蔵を開放して処刑されたために「伝蔵地蔵」として祀られるようになったともいいますが、いずれにしても確たる証拠となる史料はなく、地域の伝説として残るのみです。

もとは別の場所(北陸銀行水橋支店前)にあったというこの地蔵は、今では東西橋のたもとの六角堂の中に納まり、大切に供養されています。

参考文献

『水橋の歴史』第5集(小松外二・大村歌子編 水橋郷土歴史会、2007年)
『日本歴史地名大系』第16巻(富山県の地名)(高瀬重雄監修 平凡社、1994年)

伝蔵地蔵へのアクセス

名称

伝蔵地蔵

場所

富山県富山市水橋大町地内

備考

北陸自動車道「上市スマートインターチェンジ」から車で10分。水神社前、地鉄バス「東大橋」バス停すぐ隣の六角堂内に安置されている。

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