源右衛門・市三郎の墓(小和田組源右衛門と恵蘇郡一揆)

源右衛門・市三郎の墓 義民の史跡
飢饉に際して決起した一揆指導者の墓

天明6年(1786)、備後国(今の広島県)恵蘇郡で飢饉と村役人の不正を理由に百姓が蜂起し、およそ5千人が山王原に集結しました。広島藩が願書を受け取り年貢減免などを約束したため解散しましたが、後に頭取として小和田組源右衛門らが獄門となりました。人々は源右衛門の墓を建てるなどして供養を続け、一揆の教訓は名代官といわれる頼杏坪の施政にも影響を与えました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代の天明年間は全国的な天候不順による「天明の飢饉」で知られますが、備後国恵蘇郡でも飢えの苦しみや年貢を巡る村役人の不正に百姓の不満が高まっていました。

天明6年(1786)11月9日、恵蘇郡伊予組の5か村、2百人余りが蜂起し、行く先々の村々で加勢を募り、最終的には35か村、5千人余りに膨れ上がりました。彼らは一揆への対応を協議するため門田村(今の庄原市)の浜口屋に集まっていた庄屋ら村役人を追い払ったり、捕手に木や石を投げ付けて撃退したりもしています。

広島藩は現地に鉄砲方を送り込んで武備を固める一方、百姓慰撫のため代官や目付らを遣わしました。金尾峠に立て篭もった一揆勢と対峙した際には高札を掲げ、願いの筋があれば申し出るよう催促しています。

一揆勢は高札に「山之内山王峠ニおいて願書差出申すべし」と張り紙をして返答し、11月26日に山王原に勢揃いした上で、本郷村(今の庄原市)円通寺住職・一眼法師を通じて藩役人に願書を提出しました。これは願書を差し出した百姓が一揆の発頭人として罪に問われるのを避けるための工夫といわれます。

藩側は年貢減免や借銀の30年賦といった要望への善処を約束したため、百姓側も納得して29日までには残らず帰村し、一連の騒動は収束を迎えました。

しかし、翌天明7年(1787)になると藩は発頭狩りを開始し、10月6日に恵蘇郡福田組百姓・市三郎を打首、小和田組百姓・源右衛門を獄門(ともに今の広島県庄原市)としました。処刑地の山王原にはいつしか供養のための墓碑も建てられました。

儒学者で頼山陽の叔父に当たる頼杏坪は、文化8年(1811)に郡役所詰に任用され、後には恵蘇郡の代官にもなりますが、一揆の記憶から「昔より人気あらく、やゝもすれば騒擾する」統治困難な地域と見られていた恵蘇郡の民心掌握に心を砕きました。

著書『老の絮言(くりごと)』には、「天明一揆の頭せしものゝ頸を刎られたる塚もありける不吉の原」である山王原を擁する山王社(今の日吉神社)において、文化9年(1812)に山内組15か村から70歳以上の老人百二、三十人を集めて敬老会を開催したことが記されており、その模様を描いた「敬老図」が今も日吉神社に残されています。

飢饉に備えて頼杏坪が領民に柿の木を植えさせ、ついに3,046本に達したことを記念して建てられた「充糧碑」も同じ境内の一画にあります。

参考文献

『天明六年恵蘇郡百姓一揆資料集』(一揆首謀者の墓修復発起人会・庄原市立山内公民館編 一揆首謀者の墓修復発起人会、1984年)
『広島県史』近世2(広島県編 広島県、1984年)

源右衛門・市三郎の墓へのアクセス

名称

源右衛門・市三郎の墓

場所

広島県庄原市木戸町貞入沖1番地

備考

中国自動車道「三次東インターチェンジ」から車で10分、又はJR「山ノ内駅」から徒歩15分。日吉神社前の道路を300メートルほど南に進むと、長迫池の中に「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑が建っている。昭和58年(1983)に修復された。

関連する他の史跡

日吉神社

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