義民のあしあと

山口吉右衛門(五社神社)

江戸時代の宝暦年中、徳島藩では不作によって藍玉農家が困窮するなかで、事実上の葉藍の専売制を強化しようとしますが、宝暦6年(1756)、高原村の山口吉右衛門をはじめとした5人が中心となり、名東郡、名西郡、板野郡、麻植郡の藍作農家による一揆の計画が持ち上がります。
これを「藍玉一揆」といいますが、翌年の宝暦7年(1757)、5人は磔によって処刑されるものの、その後は藍方御用場の廃止など、藩の重税路線が改められたため、感謝した農民達によって「五社明神」として祀られました。



義民伝承の内容と背景

江戸時代の宝暦年中、徳島藩では不作によって藍作農家が困窮するなかで、第10代藩主・蜂須賀重喜が中心となり、藩財政の立て直しを図るため、藍方御用場(藍方奉行所)による葉藍の専売制を強化しようとします。
これに対して、藍作人や藍師に課せられる葉藍取引税と、藩に冥加金を納めて許可を受けた者以外には販売を認めない仕組みとなる寝床株の撤回を要求する大規模な一揆の計画が持ち上がります。

この一揆は「五社宮一揆」、「五社宮騒動」、「藍玉一揆」などと呼ばれますが、宝暦6年(1756)、阿波国名西郡高原村(現徳島県石井町)の先規奉公人の山口吉右衛門ら5人を中心に、吉野川流域の名東郡、名西郡、板野郡、麻植郡の藍作農家が決起して徳島城下に押しかける手筈だった一揆は、檄文を受け取った寺院からの密告により、事前に徳島藩の知るところとなります。

こうして一揆は未遂のまま首謀者の捕縛と拷問による自白の強要が進められ、翌年の宝暦7年(1757)3月25日、山口吉佐衛門・山口市左衛門、後藤常右衛門・後藤京右衛門、宮崎長兵衛の5人は、鮎喰川原において磔によって処刑されました。

『名西郡高原村百姓騒動実録』には、数万人という大勢の百姓が落涙しつつ見守る中で処刑が行われ、「其翌日より罪人の前へ賽銭を投げて、押合群集す。是前代未聞なり。」と、刑場に放置されていた遺体にも賽銭が絶えなかった様子が記されています。

その後は葉藍取引税や藍方御用場の廃止など、藩の重税路線が改められたため、これを感謝した農民達によって、天明元年(1781)の二十五回忌にあたり「五社明神」として小祠が建てられ、寛政元年(1789)の三十三回忌には改めて社殿が建立されました。

嘉永5年(1852)、罪人を神として祀ることは不都合であるとして、徳島藩は社殿を壊して祭祀を厳禁しますが、江戸時代が終焉を迎えた明治元年(1868)、「天満天神」と称してふたたび小祠が建てられ、明治12年(1879)には「五社神社」として公許、同16年に社殿が建てられ、のち高原村社の社格を得て、現在も地元の人々から信仰されています。

ほかにもこの「五社神社」に近い河原沿いに「二社神社」があり、こちらは処刑された後藤常右衛門・後藤京右衛門親子を弔うために造立された宝篋印塔(墓)と石祠を祀っています。

五社神社へのアクセス

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名称

五社神社 [参考リンク]

場所

徳島県名西郡石井町高原字東高原411
(この地図の緯度・経度:34.0777, 134.4172)

備考

「五社神社」は、石井町立高浦中学校のある交差点から、徳島県道232号平島国府線を西へ300メートルほど進んだ先にあります。神社の位置は県道よりも集落内部に入り込んでいるためややわかりにくいですが、境内には藍玉一揆の顛末を記した石碑が建てられています。


「二社神社」([地図])は、「五社神社」の真南300メートル、飯尾川を望む道路沿いにあります。入口に「鉄嶽義剣信士・哲心義勇信士」(常右衛門と京右衛門の法名)と刻んだ石柱が建っています。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

四国地方 山口吉右衛門 藍玉一揆