義民のあしあと

義民四人衆(義民碑)

江戸時代の総社市新本地区は、岡田藩の領地でしたが、領民の入会地であった大平山、春山が「お留山」として藩に取り上げられ、樹木の伐採・運搬の賦役まで課せられたことから、これに反対した領民たちは、惣代4名を江戸藩邸にいる藩主・岡田長救のもとに送って直訴に及びました。
その結果として、入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、代表者4名は処刑、その家族らは追放となりました。
これを「新本義民騒動」といいますが、領民らは4名を「義民四人衆」として義民社に祀り、その後も義民祭や義民碑により顕彰されています。



義民伝承の内容と背景

江戸時代の総社市新本地区は、備中国下道郡新庄村、本庄村といい、岡田藩と呼ばれる1万石の小藩の領地でしたが、領民の入会地であった大平山、春山が「お留山」として藩に取り上げられ、樹木の伐採が禁止されました。
これらの山では、農民が下草を刈って肥料や牛馬の飼い葉に使ったり、薪を採ったりしていましたが、それができなくなってしまったほか、樹木の伐採と陣屋(現在の岡田小学校)までの運搬の賦役まで課せられ、その手間賃はわずかで、生活に大きな支障を来たすことになりました。

そこで、これに反対した新庄村と本庄村の203名は寄合を持ち、起請文に血判の上でお留山を奪還することを決議し、蔵鏡寺など三ヶ寺の住職の斡旋もあって、享保2年(1717)、藩への嘆願の趣旨が一部認められ、山は開放されました。

その後、許可を得ずに木々を伐採したとして藩から疑いがかかり庄屋が糾弾されたため、藩と村民との対立が激化し、ついに享保3年(1718)、村民の惣代として、松森六蔵(津梅地区)、荒木甚右衛門(小下)、森脇喜惣治(小砂)、川村仁右衛門(稲井田)の4名が江戸藩邸にいる岡田藩5代藩主・岡田長救(ながひら)のもとに送られ、直訴に及ぶところとなりました。

その結果として、入会地の藩有化と賦役は解消されたものの、代表者4名は死罪、その家族らは追放と決まり、享保3年6月、新本川の飯田屋河原で処刑が行われました。

これら一連の顛末を「新本義民騒動」(しんぽんぎみんそうどう)といいますが、領民らは4名を「義民四人衆」と呼び、新庄村の西明寺に墓を建て(総社市指定史跡の「義民埋葬地」。ただし、川村仁右衛門は別の場所にある川村家墓地内)、西明寺の裏山の「義民社」の小祠に祀りました。
また、処刑場の飯田屋河原の近くには「義民碑」が建てられ、現存のものは岡山出身の総理大臣・犬養毅が揮毫をしています。
大正6年(1917)に「義民四人衆二百年祭」が行われて以後、毎年夏に「義民祭」が行われるようになり、現在でも新本享保義民奉賛会などにより伝統が継承されています。
ほかにも新本小学校の全児童によるオペレッタ「義民様」の奉納や、小学校脇への「義民の城」築造など、さまざまな顕彰活動が行われています。

義民碑へのアクセス

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名称

義民碑 [参考リンク]

場所

岡山県総社市新本地内
(この地図の緯度・経度:34.6648, 133.6561)

備考

「義民碑」は、総社市役所西出張所(義民会館)から東に100メートル程度進んだ岡山県道80号上高末総社線沿いにあります。


「義民埋葬地」([地図])は、西明寺のすぐ西側の道路を奥に進むと見える共同墓地の入口付近にあります。現地には総社市教育委員会による解説板も建てられています。


「義民社」([地図])は、新本小学校の校舎裏山に見える小祠で、忠魂碑の右脇に鎮座しています。ほかに小学校の校庭東側に「義民の城」([地図])があります。




参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

中国地方 義民四人衆 新本義民騒動