義民の史跡

義民の史跡

八竜天神社(高松八郎兵衛と久留米藩大一揆)

宝暦4年(1754)、久留米藩の人別銀賦課に端を発して、数万人規模の百姓が参加する全藩一揆「久留米藩大一揆」が勃発します。藩は人別銀を撤回するものの、責任追及のため300人以上を捕縛、御原郡大庄屋・高松八郎兵衛はじめ37人を処刑しました。八...
義民の史跡

藤五郎神社(遠藤藤五郎と三保村越訴)

江戸末期の安政の大地震は農地にも甚大な被害を及ぼしましたが、駿河国有度郡三保村(今の静岡県静岡市清水区)一帯では海岸が隆起して新たな土地を生じたたため、困窮する小前百姓らは三保村の藤五郎(遠藤藤五郎)を代表として、領主である御穂神社神官の太...
義民の史跡

北郷開樋殉難者之碑(鳴尾の義民と天正北郷樋事件)

天正19年(1591)、干魃に悩む摂津国武庫郡鳴尾村(今の兵庫県西宮市)は枝川上流の瓦林村(同市)から無断引水し、両村百姓の乱闘事件に発展しました。結果として鳴尾村の取水権は認められたものの、豊臣政権の「喧嘩停止令」に違反したとして、この翌...
義民の史跡

天草四郎時貞の墓碑(益田時貞と島原の乱)

寛永14年(1637)、過酷な徴税とキリシタン迫害に耐えかねた島原・天草の民衆3万7千人が益田四郎を総大将に蜂起し、原城に籠城しましたが、幕府軍の総攻撃の前に全滅しました。今日でも現地にはこの「島原の乱」犠牲者の供養塔をはじめとするいくつか...
義民の史跡

武左衛門大いちょう(上大野村武左衛門と吉田騒動)

寛政5年(1793)、伊予国(愛媛県)吉田藩の紙専売制に反対し、宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)百姓・武左衛門らを頭取とする大一揆が起こり、約1万人が宇和島城下に迫りました。吉田藩家老・安藤儀太夫は百姓の面前で失政の責を負い切腹し...
義民の史跡

義少年合同の碑(二義少年と恋路・七房村水論)

江戸時代前期の寛文年間、周防国恋路村(今の山口県山口市)の2人の少年が、旱害に悩む村人のために宮野川上流の井手を切り、無断で川の水を村の水田まで引き入れました。この一件は上流の村との水論となって容易に解決を見なかったため、2少年は長州藩主・...
義民の史跡

二義少年碑(松原清介と長野村百姓一揆)

長州藩の益田氏給地となっていた周防国長野村(今の山口県山口市)は重税や課役に苦しみ、代官に訴えても叱責を受けるのみでした。そこで宝永7年(1710)、庄屋の子である松原清介と友人の常田角左衛門が藩主に直訴し、願意は認められたものの、2少年と...
義民の史跡

天保大一揆発祥之地碑(吉部村弥右衛門と防長大一揆)

天保2年(1831)、長州藩の専売制強化などへの不満から、周防・長門(今の山口県)両国の約10万人が参加する全藩一揆「防長大一揆」が発生し、各地の庄屋宅などを打ちこわして回りました。一揆は藩兵により鎮圧され、吉部村畔頭・片山弥右衛門らが誅罰...
義民の史跡

浮石義民墓所(藤井角右衛門と浮石義民事件)

宝永7年(1710)、凶作下で年貢の厳しい取立てを続けた長府藩筆頭家老の椙杜家に対抗し、長門国豊浦郡浮石村(今の山口県下関市)では給庄屋・藤井角右衛門を中心とする5人が幕府巡検使に年貢減免の直訴を行いました。訴願の趣旨は聞き届けられ、年貢は...
義民の史跡

建立寺(北野孫兵衛と山代慶長一揆)

慶長13年(1608)、長州藩の慶長検地と高率な年貢に対する反発から、周防国玖珂郡本郷村(今の山口県岩国市)庄屋・北野孫兵衛ら11人を中心とする「山代慶長一揆」が起こり、年貢は引き下げられたものの、11人全員が引地峠で磔となりました。これら...
義民の史跡

源右衛門・市三郎の墓(小和田組源右衛門と恵蘇郡一揆)

天明6年(1786)、備後国(今の広島県)恵蘇郡で飢饉と村役人の不正を理由に百姓が蜂起し、およそ5千人が山王原に集結しました。広島藩が願書を受け取り年貢減免などを約束したため解散しましたが、後に頭取として小和田組源右衛門らが獄門となりました...
義民の史跡

富貴神社(吉松仁右衛門父子冤罪一件)

江戸時代中期のこと、石見国柳村(今の島根県鹿足郡津和野町)の蔵方・吉松仁右衛門は、上納紙を巡る庄屋の不正を代官に告発し、藩主にも直訴しようとして津和野城下に至りました。仁右衛門は延享2年(1745)に処刑されますが、以後城下で火災が相次いだ...