最首杢右衛門 江戸時代中期の上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)の組頭。旗本・阿部正甫(まさはる)の駿府在番に伴う御用金400両の賦課に対し、減免を求めて江戸屋敷に門訴したため斬首される。処刑後に領内の5か村が施主となり菩提寺の坂水寺に供養碑が建てられ、いすみ市指定文化財となっている。他にも最首家墓地から「而為百世神」などと刻み杢右衛門を讃える墓碑が出土した。 ▲

斎藤彦内 江戸中期の陸奥国伊達郡長倉村(今の福島県伊達市)組頭。寛永2年(1749)の信達騒動の頭取として自首し獄門となる。同じく処刑された猪狩源七・蓬田半左衛門とともに「寛延三義民」として顕彰され、菩提寺の福源寺に墓や霊堂がある。 ▲

佐賀野屋久右衛門 江戸時代中期の越中国射水郡放生津町(今の富山県射水市)の漁民。加賀藩領の特権商人である六軒問屋に反発して漁民400人が金沢城下に強訴した享保元年(1716)のバンドリ一揆の東放生津惣代として、西放生津惣代の四歩市屋四郎兵衛とともに処刑され、「漁民義人塚」に祀られた。 ▲

佐々木弥五兵衛 陸奥国閉伊郡下岩泉村切牛(今の岩手県下閉伊郡田野畑村)の百姓。牛方として塩荷駄を積み行商するのにあわせ、領内各村を巡って一揆への参加を説き、弘化4年(1847)の「弘化三閉伊一揆」の頭取として活躍した。この一揆では1万2千人で遠野南部家に強訴し、盛岡藩に税の免除などの要求を認めさせたが、翌年には捕縛されて盛岡で牢死、または斬殺されたという。 ▲

定藤仙助 江戸時代中期の備後国安那郡下竹田村(今の広島県福山市)の庄屋。明和7年(1770)の福山藩明和一揆の頭取となり、要求は実現したものの北川六右衛門・渡辺好右衛門とともに打首獄門、家は闕所に処せられた。 ▲

眼目屋与左衛門 江戸時代の越中国新川郡東水橋村(今の富山県富山市)にいた米商人。飢饉に苦しむ人々を救おうと加賀藩の給人蔵を開いて扶持米を勝手に処分したため生埋めの刑に処せられたという伝説がある。 ▲

佐藤甚助 江戸時代前期の出羽国雄勝郡上到米村(今の秋田県雄勝郡羽後町)の長百姓。冷害による年貢未進が続く村の窮状を救うため、肝煎・遠山治兵衛とともに久保田藩主・佐竹義隆に駕籠訴をする。藩が検視したところ夏の土用に降雹があり、直訴が真実と認められて釈放され、年貢も軽減されたと伝わる。近代に入り甚助神社に祀られた。 ▲

佐藤太郎右衛門 陸奥国信夫郡佐原村の百姓で、享保14年(1729)に起きた信夫・伊達郡の一揆の頭取となる。当時は幕府代官により定免法採用と年貢増徴が行われ百姓が困窮していたことから、信達地方の百姓が代官所に年貢減免を娶る強訴を行い、あわせて佐藤太郎右衛門が江戸に上り目安箱に訴状を投函した。太郎右衛門は江戸潜伏中に捕縛され、佐原荒田口で処刑された。 ▲

佐藤仁左衛門 江戸前期の出羽国矢島郷下笹子(しもじねこ)村の名主。生駒氏の領地であった矢島郷の検地で石高の水増しが行われ、百姓の逃散が相次いだことから、,江戸に上り領主に直訴し朱印状を得る。しかし、城代家老らの策謀で他の同士は処刑され、仁左衛門も裏切りにより殺害されたという。 ▲

佐土原基右衛門 江戸時代後期の豊後国大野郡黍野組(今の大分県臼杵市)大庄屋。藩による組替えに反対する農民を宥めて藩庁に訴願するが、強訴徒党の嫌疑をかけられたことから切腹し、死後神として祀られた。 ▲

椎名源治 下総国香取郡牧野村の人。寛文2年(1662)の凶作にあたり地頭黒川左馬の苛政を公儀に訴え、逆に村内引き回しの上生き埋めにされたという。その後村で疫病流行の折、源治処刑の際に哀れんで酒を与えた家だけが無事だったことから、山神源治宮として祀り霊を鎮めた。 ▲

重清村秀 江戸時代中期の阿波国美馬郡重清村(今の徳島県美馬市)組頭の妻。宝暦8年(1758)、組頭庄屋の不正を夫に代わり徳島藩家老に直訴し、組頭庄屋は追放されるが、自身は鮎喰河原で打首となり、夫も後を追い自害した。 ▲

市東刑部左衛門 江戸前期の上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主。検田使として訪れた幕府役人に年貢軽減と救米を求めたが横柄な振舞いをされたため、役人を斬り殺して米蔵を勝手に開放し、農民に施米した上で切腹して果てたという。 ▲

柴田助太夫 江戸時代前期の三河国碧海郡大浜茶屋村(今の愛知県安城市)の庄屋。刈谷藩に対して助郷役免除の訴願を繰り返し、延宝5年(1677)に死罪となったが、大浜茶屋村では以後の助郷役が免除され、幕末に至るまで続いた。 ▲

島田紋次郎 江戸幕末の頃の武蔵国秩父郡上名栗村(今の埼玉県飯能市)の大工。横浜開港後のインフレによる米価高騰などに端を発した慶応2年(1866)の「武州世直し一揆」の頭取となる。上武一帯の200か村・10万人が参加した大一揆に発展し、幕府や藩兵・農兵らにより7日間で鎮圧される。後に召し捕られて死罪と決まるが、処刑前の同年中に獄死している。 ▲

清水半平 江戸時代中期の信濃国小県郡夫神村(今の長野県小県郡青木村)百姓。宝暦11年(1761)、千曲川流域の1万3千人が年貢減免や役人の罷免などを求めて上田城下で強訴した「上田騒動」の頭取として死罪となった。 ▲

下田隼人 江戸時代前期の相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主。小田原藩による麦租の賦課に反対する一揆を宥めて藩主・稲葉正則に直訴し、麦租は撤回されるものの、自身は万治3年(1660)に小田原城下で死罪、跡式欠所となった。大正時代には菩提寺の龍福寺に「下田隼人翁碑」が建てられ顕彰を受けている。ほかに大稲荷神社境内社の錦織神社にも祭神として合祀されている。 ▲

白井半左衛門 江戸時代中期の丹波国多紀郡福住村(今の兵庫県丹波篠山市)庄屋。灌漑・防火用水として溝を開削するも無断工事として大庄屋に訴えられ、享保16年(1731)に死罪闕所に処せられた。 ▲

白岩義民 寛永10年(1633)、出羽国村山郡白岩郷(今の山形県寒河江市)の百姓が旗本・酒井忠重の苛政に耐えかね、非法23か条を「白岩目安」にまとめ幕府に直訴し、忠重は改易された。しかし、代官支配に変わった後も不満が続き、寛永15年(1638)に再び一揆が起きるが、山形藩主・保科正之の計略で百姓36人が騙されて捕らえられ、幕府の裁定を待たず、保科正之の独断で山形城下の広河原において全員が磔刑に処せられた。この一連の白岩一揆で犠牲となった人々を白岩義民と称する。 ▲

白田六右衛門 上野国多胡郡の庄屋。飢饉に際して無断で穀倉を開き農民に年貢米を分け与えたため死罪となる。義民として地元の龍源寺に顕彰碑が建つ。 ▲

杉木茂左衛門 江戸前期の上野国利根郡月夜野村(今の群馬県利根郡みなかみ町)の名主。沼田藩主・真田信利の圧政を将軍に直訴し、真田家は改易、再検地で年貢が軽減されるが、茂左衛門自身も磔となり、「磔茂左衛門」として知られるようになった。 ▲

杉箸村甚三郎 江戸時代後期の敦賀郡刀根村枝郷杉箸村(今の福井県敦賀市)の農民。天明4年(1785)の凶作に伴う米価高騰下で起きた「敦賀町打ちこわし」の頭取として捕らえられ斬首された。 ▲

鈴木源之丞 下野国河内郡御田長島村(今の栃木県宇都宮市)の庄屋。明和元年(1764)、宇都宮藩の百姓一揆「籾摺騒動」の頭取として上平出村の水沼亀右衛門、今泉新田の増淵六平とともに市中引回しの上打首となる。年号は宝暦3年(1753)とも。処刑後に六角柱型の供養塔が建てられたほか、「喜国大明神」として高尾神社内に祀られる。 ▲

園田道閑 江戸時代前期の加賀国鹿島郡久江村(今の石川県鹿島郡中能登町)の十村役。寛文5年(1665)、在地給人の浦野孫右衛門が起こした検地反対運動に同調し磔刑となる。臼摺歌に「道閑様は七十五村の身代りに」と歌われた。 ▲
