「さ」ではじまる義民

上田城
このページは名前の読みが「さ」行ではじまる義民を紹介しています。

最首杢右衛門 江戸時代中期の上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)の組頭。旗本・阿部正甫(まさはる)の駿府在番に伴う御用金400両の賦課に対し、減免を求めて江戸屋敷に門訴したため斬首される。処刑後に領内の5か村が施主となり菩提寺の坂水寺に供養碑が建てられ、いすみ市指定文化財となっている。他にも最首家墓地から「而為百世神」などと刻み杢右衛門を讃える墓碑が出土した。 

杢右衛門の碑(最首杢右衛門の門訴)
寛延3年(1750)、上総国夷隅郡深堀村(今の千葉県いすみ市)組頭の最首杢右衛門は、御用金の用捨願いのため旗本・阿部正甫...

斎藤彦内 江戸中期の陸奥国伊達郡長倉村(今の福島県伊達市)組頭。寛永2年(1749)の信達騒動の頭取として自首し獄門となる。同じく処刑された猪狩源七・蓬田半左衛門とともに「寛延三義民」として顕彰され、菩提寺の福源寺に墓や霊堂がある。 

義民斎藤彦内墓所(斎藤彦内と寛延信達一揆)
寛延2年(1749)、冷害による凶作に見舞われた桑折代官所支配68か村の百姓は、年貢減免を求めて代官所を取り囲む強訴に及...

佐賀野屋久右衛門 江戸時代中期の越中国射水郡放生津町(今の富山県射水市)の漁民。加賀藩領の特権商人である六軒問屋に反発して漁民400人が金沢城下に強訴した享保元年(1716)のバンドリ一揆の東放生津惣代として、西放生津惣代の四歩市屋四郎兵衛とともに処刑され、「漁民義人塚」に祀られた。 

漁民義人塚(佐賀野屋久右衛門とバンドリ一揆)
享保元年(1716)、越中国放生津町(今の富山県射水市)では加賀藩により特権を認められた「六軒問屋」に対する反発が高まり...

佐々木弥五兵衛 陸奥国閉伊郡下岩泉村切牛(今の岩手県下閉伊郡田野畑村)の百姓。牛方として塩荷駄を積み行商するのにあわせ、領内各村を巡って一揆への参加を説き、弘化4年(1847)の「弘化三閉伊一揆」の頭取として活躍した。この一揆では1万2千人で遠野南部家に強訴し、盛岡藩に税の免除などの要求を認めさせたが、翌年には捕縛されて盛岡で牢死、または斬殺されたという。 

切牛(佐々木)弥五兵衛の墓(弘化・嘉永三閉伊一揆)
弘化4年(1847)、陸奥国(今の岩手県)盛岡藩主・南部利済の悪政に対し、三閉伊通の百姓1万人以上が決起し、切牛の弥五兵...

定藤仙助 江戸時代中期の備後国安那郡下竹田村(今の広島県福山市)の庄屋。明和7年(1770)の福山藩明和一揆の頭取となり、要求は実現したものの北川六右衛門・渡辺好右衛門とともに打首獄門、家は闕所に処せられた。 

定藤仙助の墓(定藤仙助と明和一揆)
明和7年(1770年)、備後国(今の広島県)福山藩領で凶作下での年貢増徴に反対する「明和一揆」が起こりました。結果として...

眼目屋与左衛門 江戸時代の越中国新川郡東水橋村(今の富山県富山市)にいた米商人。飢饉に苦しむ人々を救おうと加賀藩の給人蔵を開いて扶持米を勝手に処分したため生埋めの刑に処せられたという伝説がある。 

伝蔵地蔵(眼目屋与左衛門の義民伝承)
江戸時代、越中国新川郡東水橋村(今の富山県富山市)の米商人・眼目屋与左衛門が飢饉の際に給人蔵を勝手に開放して米を分け与え...

佐藤甚助 江戸時代前期の出羽国雄勝郡上到米村(今の秋田県雄勝郡羽後町)の長百姓。冷害による年貢未進が続く村の窮状を救うため、肝煎・遠山治兵衛とともに久保田藩主・佐竹義隆に駕籠訴をする。藩が検視したところ夏の土用に降雹があり、直訴が真実と認められて釈放され、年貢も軽減されたと伝わる。近代に入り甚助神社に祀られた。 

甚助神社(佐藤甚助と上到米村越訴)
正保2年(1645)、冷害に悩む出羽国雄勝郡上到米村(今の秋田県雄勝郡羽後町)の長百姓・佐藤甚助は肝煎とともに久保田藩主...

佐藤太郎右衛門 陸奥国信夫郡佐原村の百姓で、享保14年(1729)に起きた信夫・伊達郡の一揆の頭取となる。当時は幕府代官により定免法採用と年貢増徴が行われ百姓が困窮していたことから、信達地方の百姓が代官所に年貢減免を娶る強訴を行い、あわせて佐藤太郎右衛門が江戸に上り目安箱に訴状を投函した。太郎右衛門は江戸潜伏中に捕縛され、佐原荒田口で処刑された。 

義民太郎右衛門霊堂(佐藤太郎右衛門と享保信達一揆)
享保14年(1729)、幕府代官・岡田庄太夫による定免法採用と年貢増徴に反発し、陸奥国信達地方(今の福島県)の百姓が代官...

佐藤仁左衛門 江戸前期の出羽国矢島郷下笹子(しもじねこ)村の名主。生駒氏の領地であった矢島郷の検地で石高の水増しが行われ、百姓の逃散が相次いだことから、,江戸に上り領主に直訴し朱印状を得る。しかし、城代家老らの策謀で他の同士は処刑され、仁左衛門も裏切りにより殺害されたという。 

青田神社(佐藤仁左衛門と宝永騒動)
延宝7年(1679)、生駒領の出羽国矢島郷(今の秋田県由利本荘市)で重臣の山本一家が増税を強いたため、百姓が江戸に直訴し...

佐土原基右衛門 江戸時代後期の豊後国大野郡黍野組(今の大分県臼杵市)大庄屋。藩による組替えに反対する農民を宥めて藩庁に訴願するが、強訴徒党の嫌疑をかけられたことから切腹し、死後神として祀られた。 

板屋原神社(佐土原基右衛門の切腹死事件)
江戸時代の天保年間、豊後国(今の大分県)黍野組の大庄屋・佐土原基右衛門は、飢饉を理由に臼杵藩の代官に年貢減免を訴願するも...

椎名源治 下総国香取郡牧野村の人。寛文2年(1662)の凶作にあたり地頭黒川左馬の苛政を公儀に訴え、逆に村内引き回しの上生き埋めにされたという。その後村で疫病流行の折、源治処刑の際に哀れんで酒を与えた家だけが無事だったことから、山神源治宮として祀り霊を鎮めた。 

山神源治宮(椎名源治の義民伝承)
寛文2年(1662)、下総国香取郡牧野村(今の千葉県香取市)の椎名源治は地頭・黒川左馬の苛政を公儀に訴え、生埋めにして処...

重清村秀 江戸時代中期の阿波国美馬郡重清村(今の徳島県美馬市)組頭の妻。宝暦8年(1758)、組頭庄屋の不正を夫に代わり徳島藩家老に直訴し、組頭庄屋は追放されるが、自身は鮎喰河原で打首となり、夫も後を追い自害した。 

秀塚神社(重清村秀と重清騒動)
宝暦8年(1758)、阿波国美馬郡重清村(今の徳島県美馬市)組頭の妻・お秀は、村を代表して組頭庄屋の不正を徳島藩家老に直...

市東刑部左衛門 江戸前期の上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主。検田使として訪れた幕府役人に年貢軽減と救米を求めたが横柄な振舞いをされたため、役人を斬り殺して米蔵を勝手に開放し、農民に施米した上で切腹して果てたという。 

義民市東刑部左衛門之墓(市東刑部左衛門の切腹伝承)
慶長10年(1605)、上総国山辺郡東金(今の千葉県東金市)にいた元武士で、土着して名主となっていた市東刑部左衛門は、年...

柴田助太夫 江戸時代前期の三河国碧海郡大浜茶屋村(今の愛知県安城市)の庄屋。刈谷藩に対して助郷役免除の訴願を繰り返し、延宝5年(1677)に死罪となったが、大浜茶屋村では以後の助郷役が免除され、幕末に至るまで続いた。 

永安寺(柴田助太夫と大浜茶屋村の愁訴)
延宝5年(1677)、三河国碧海郡大浜茶屋村(今の愛知県安城市)庄屋・柴田助太夫は、助郷役免除の訴願を繰り返し、この年死...

島田紋次郎 江戸幕末の頃の武蔵国秩父郡上名栗村(今の埼玉県飯能市)の大工。横浜開港後のインフレによる米価高騰などに端を発した慶応2年(1866)の「武州世直し一揆」の頭取となる。上武一帯の200か村・10万人が参加した大一揆に発展し、幕府や藩兵・農兵らにより7日間で鎮圧される。後に召し捕られて死罪と決まるが、処刑前の同年中に獄死している。 

島田紋次郎の墓(島田紋次郎と武州世直し一揆)
慶応2年(1866)、横浜開港後のインフレによる米価高騰を契機として、上武一帯の200か村10万人が参加する「武州世直し...

清水半平 江戸時代中期の信濃国小県郡夫神村(今の長野県小県郡青木村)百姓。宝暦11年(1761)、千曲川流域の1万3千人が年貢減免や役人の罷免などを求めて上田城下で強訴した「上田騒動」の頭取として死罪となった。 

宝暦義民の碑(清水半平と上田騒動)
宝暦11年(1761)、信濃国(今の長野県)上田藩領で年貢減免や役人罷免を求める惣百姓一揆「上田騒動」が発生し、家老が一...

下田隼人 江戸時代前期の相模国足柄上郡関本村(今の神奈川県南足柄市)名主。小田原藩による麦租の賦課に反対する一揆を宥めて藩主・稲葉正則に直訴し、麦租は撤回されるものの、自身は万治3年(1660)に小田原城下で死罪、跡式欠所となった。大正時代には菩提寺の龍福寺に「下田隼人翁碑」が建てられ顕彰を受けている。ほかに大稲荷神社境内社の錦織神社にも祭神として合祀されている。 

下田隼人翁碑(下田隼人の直訴事件)
江戸時代前期、小田原藩は財政悪化を埋め合わせるため領内の総検地を実施するとともに、新税として麦租を導入しようとしました。...

白井半左衛門 江戸時代中期の丹波国多紀郡福住村(今の兵庫県丹波篠山市)庄屋。灌漑・防火用水として溝を開削するも無断工事として大庄屋に訴えられ、享保16年(1731)に死罪闕所に処せられた。 

白井半左衛門供養塔(白井半左衛門の義民伝承)
享保16年(1731)、丹波国多紀郡福住村(今の兵庫県丹波篠山市)庄屋の白井半左衛門は、私費をもって福住の集落に灌漑・防...

白岩義民 寛永10年(1633)、出羽国村山郡白岩郷(今の山形県寒河江市)の百姓が旗本・酒井忠重の苛政に耐えかね、非法23か条を「白岩目安」にまとめ幕府に直訴し、忠重は改易された。しかし、代官支配に変わった後も不満が続き、寛永15年(1638)に再び一揆が起きるが、山形藩主・保科正之の計略で百姓36人が騙されて捕らえられ、幕府の裁定を待たず、保科正之の独断で山形城下の広河原において全員が磔刑に処せられた。この一連の白岩一揆で犠牲となった人々を白岩義民と称する。 

間沢村三霊供養碑(白岩義民と白岩一揆)
寛永10年(1633)、出羽国村山郡白岩郷(今の山形県寒河江市・西村山郡西川町)の百姓が「白岩目安」をもって旗本・酒井忠...

白田六右衛門 上野国多胡郡の庄屋。飢饉に際して無断で穀倉を開き農民に年貢米を分け与えたため死罪となる。義民として地元の龍源寺に顕彰碑が建つ。 

義民白田六右衛門顕彰碑(白田六右衛門の義民伝承)
元禄2年(1689)、上野国多胡郡多胡村(今の群馬県高崎市)の庄屋・白田六郎右衛門は、飢饉に際して年貢米を独断で百姓に分...

杉木茂左衛門 江戸前期の上野国利根郡月夜野村(今の群馬県利根郡みなかみ町)の名主。沼田藩主・真田信利の圧政を将軍に直訴し、真田家は改易、再検地で年貢が軽減されるが、茂左衛門自身も磔となり、「磔茂左衛門」として知られるようになった。 

茂左衛門地蔵尊千日堂(杉木茂左衛門と磔茂左衛門一揆)
天和元年(1681)、上野国利根郡月夜野村(今の群馬県利根郡みなかみ町)名主・杉木茂左衛門は沼田藩の悪政を幕府に直訴し、...

杉箸村甚三郎  江戸時代後期の敦賀郡刀根村枝郷杉箸村(今の福井県敦賀市)の農民。天明4年(1785)の凶作に伴う米価高騰下で起きた「敦賀町打ちこわし」の頭取として捕らえられ斬首された。 

甚三郎の供養石仏(杉箸村甚三郎と敦賀打ちこわし一揆)
天明4年(1784)、越前国小浜藩領の敦賀町(今の福井県敦賀市)で米価高騰に反発する打ちこわしが発生し、頭取として敦賀郡...

鈴木源之丞 下野国河内郡御田長島村(今の栃木県宇都宮市)の庄屋。明和元年(1764)、宇都宮藩の百姓一揆「籾摺騒動」の頭取として上平出村の水沼亀右衛門、今泉新田の増淵六平とともに市中引回しの上打首となる。年号は宝暦3年(1753)とも。処刑後に六角柱型の供養塔が建てられたほか、「喜国大明神」として高尾神社内に祀られる。 

鈴木源之丞供養塔(鈴木源之丞と籾摺騒動)
明和元年(1764)、宇都宮藩の年貢増徴に反対して百姓4万5千人が宇都宮城下で打ちこわしを行う「籾摺騒動」が起こり、頭取...

園田道閑 江戸時代前期の加賀国鹿島郡久江村(今の石川県鹿島郡中能登町)の十村役。寛文5年(1665)、在地給人の浦野孫右衛門が起こした検地反対運動に同調し磔刑となる。臼摺歌に「道閑様は七十五村の身代りに」と歌われた。 

道閑公園(園田道閑と浦野事件)
寛文5年(1665)、加賀国(今の石川県)鹿島半郡で給人・浦野孫右衛門が検地に反対し、十村役・園田道閑らもこれに同調した...
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義民のあしあと