加賀屋弥左衛門 江戸末期の出羽国田川郡大山村(今の山形県鶴岡市)の造り酒屋。弘化元年(1844)に発生した、大山・余目・丸岡の幕府領が庄内藩預地となることに反対する「大山騒動」の首謀者として獄門を申し渡されるが、既に牢死した後と伝わる。江戸で牢死した弥左衛門ら5名の供養塔が大山地区の銅片町集会所に残る。 ▲

片岡治兵衛 江戸時代初期の丹波国何鹿郡報恩寺村(今の京都府福知山市)庄屋。獣害による年貢減免を福知山藩主・稲葉紀通に求めるも、同地を猪狩りに訪れた藩主の面前に猪が1頭も姿を見せず、「桶伏せ」の刑に処せられたという。 ▲

片岡万平 常陸国河内郡生板村(まないたむら、今の茨城県稲敷郡河内町)の百姓。代官の吉岡次郎右衛門が凶作時に重税を課したため、文化14年(1817)、天領8か村の百姓463人で江戸の代官屋敷に門訴を行う。片岡万平のほか、同村の石山市左衛門・成毛与五右衛門の3人で幕府勘定奉行にも越訴し、捕らえられて吟味中に獄死。文政6年(1823)に供養のための法華塔が地元の妙行寺境内に建てられており、「生板の三義人」として知られる。 ▲

片山弥右衛門 江戸時代後期の長門国阿武郡吉部村(今の山口県阿武郡むつみ村)畔頭。蔵置籾の取違えを巡る争論をきっかけに天保2年(1831)の「防長大一揆」における奥阿武宰判の発頭人として処刑された。 ▲

金子重右衛門 江戸時代中期の甲斐国八代郡金田村(今の山梨県笛吹市)の長百姓。寛政4年(1792)、甲斐国内の田安家領における不正徴税に対抗して起きた「太枡騒動」の首謀者として捕らえられ、日川河原で獄門に懸けられる。文久年間に「金重大明神」として祀る小祠が建てられた。 ▲

蒲戸砂川 江戸時代後期の琉球国の仲筋村(今の沖縄県宮古郡多良間村)の農民。役人の不正徴税を他の4人とともに琉球王府に直訴する「多良間騒動」を起こしたが、役人は処分され、自身は官位を賜る。 ▲

上大野村武左衛門 江戸時代後期の伊予国宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)の百姓。寛政5年(1793)、伊予吉田藩の紙専売制などに反対する「武左衛門一揆」の頭取として獄門となる。 ▲

上新田村藤助 江戸時代中期の信濃国高井郡上新田村(今の長野県飯山市)の年番組頭。安永6年(1777)に年貢皆済時期を巡り高井・水内両郡の幕府中野代官所支配の村々が蜂起した「安永中野騒動」の頭取として獄門となる。 ▲

河合伊左衛門 江戸時代前期の三河国渥美郡中山村(今の愛知県田原市)の大庄屋。小庄屋の河合久右衛門とともに「伊左久右」とも呼ぶ。不作・不漁による百姓の困難を救うため、立木払下げを求めて領主に越訴するが、代官の讒言で処刑されたという。怨霊が虫害を起こすとして大施餓鬼が行われる起源にもなった。 ▲

河合清右衛門 江戸時代前期の三河国渥美郡野田村(今の愛知県田原市)組頭。野田村が下草刈りなどに利用していた比留輪山を巡り隣村の赤羽根村(同)と対立し、幕府に越訴の末に獄門となったが、勝訴により権益を確保した。 ▲

川口市郎兵衛 江戸時代前期の駿河国富士郡青島村(今の静岡県富士市)の名主。延宝9年(1681)の検地に反対して磔刑に処せられる。その後密かに青島八幡神社(磔八幡)に合祀されるが、将軍・徳川家治の時代に赦免され奉幣を受けたという。 ▲

川崎久左衛門 江戸時代前期の和泉国南郡沼村(今の大阪府岸和田市)庄屋。岡部宣勝の襲封に当たり年貢減石を強訴して斬首される。岸和田だんじり祭の囃子詞「おっしゃんしゃん」は御庄屋様の謂で報恩のためという。 ▲

川戸喜八 江戸時代中期の伊勢国鈴鹿郡辺法寺村(今の三重県亀山市)百姓。重税の免除を求め明和5年(1768)に起きた亀山藩領83か村による一揆「亀山騒動」の補佐頭取として総大将の真弓長右衛門らとともに斬罪に処せられた。 ▲

菅野八郎 陸奥国伊達郡金原田村(今の福島県伊達市)の農村思想家。神君家康公の夢告として幕府に海防を献策し、安政の大獄で八丈島に遠島となる。赦免後は故郷で農民を集め自衛組織「誠心講」を立ち上げたが、慶応2年(1866)に信夫・伊達両郡で発生した「信達騒動」の指導者と見られて入牢した。 ▲

木内惣五郎 江戸前期の下総国公津村の庄屋。本名は木内惣五郎といい、重税に苦しむ百姓に代わり、承応元年(1652)に佐倉藩の悪政を将軍に直訴して妻子ともども処刑されたと伝わる。後に藩主・堀田正信が改易されたのは惣五郎の祟りとされ、堀田家でも口の明神に惣五郎を祀った。後に『佐倉義民伝』として歌舞伎や講談・浪曲などの文芸のモチーフとして大衆に広まった。 ▲

義少年 江戸時代前期の周防国吉敷郡恋路村(今の山口県山口市)にいた2人の少年で名は不詳。寛文年間、上流の井手を切って旱害から村を救い、藩主にも窮状を直訴して要求を認めさせたが処刑され、石仏碑に祀られたという。 ▲

北市村源右衛門 江戸時代中期の越中国砺波郡北市村(今の富山県南砺市)百姓・孫九郎の二男。宝暦7年(1757)、米価高騰をきっかけに城端町(同)で米屋が打ちこわされた「北市騒動」の頭取として自宅前で磔刑に処せられた。 ▲

北沢清兵衛 江戸時代中期の信濃国水内郡地京原村(今の長野県長野市)の百姓で元村役。浅間山噴火による不作の状況下、松代藩の山中地域の百姓が大挙して酒屋から押借をした「天明山中騒動」の責を負い永牢の処分を受けた。 ▲

北野孫兵衛 江戸時代初期の周防国玖珂郡本郷村(今の山口県岩国市)庄屋。長州藩の慶長検地と高免に反発し、慶長13年(1608)、山代郷10か村の庄屋連名で代官所に愁訴し、年貢率は引き下げられたが引地峠で処刑されたという。 ▲

北野村藤九郎 江戸時代中期の美作国勝北郡北野村(今の岡山県勝田郡奈義町)西分の高持百姓。同村東分高持百姓・与三右衛門とともに、元文3年(1739)の「勝北非人騒動」の発頭人として死罪になった。 ▲

義民四人衆 享保3年(1718)、入会山を岡田藩が留山としたことに反対し、備中国下道郡新庄村・本庄村(いずれも今の岡山県総社市)の惣代として藩主に直訴し処刑された4人を指す。この事件は「新本義民騒動」と呼ばれる。 ▲

義民六人士 江戸時代前期の筑前国宗像郡津屋崎村(今の福岡県福津市)浦庄屋・佐兵衛ら6人をいう。津屋崎・勝浦間の漁場争いで福岡藩に直訴し漁場拡大に成功するも、寛永17年(1640)に全員が処刑された。 ▲

工藤治兵衛 江戸時代初期の伊予国新居郡中奥山(今の愛媛県西条市)庄屋。寛文4年(1664)、米価高騰を契機に年貢銀納を求めて藩庁に強訴、嬰児含め16人が処刑された。後に西条藩一柳家は改易となり、生き残った庄屋の嘆願活動で銀納も認められたため、「銀納義民」として顕彰された。 ▲

蔵川村吉右衛門 江戸時代中期の伊予国喜多郡蔵川村(今の愛媛県大洲市)平百姓。明和7年(1770)、蔵川村百姓160人が宇和島藩領に逃散した「蔵川騒動」の頭取として、同村の新之丞とともに自首し、荒間地峠に梟首された。 ▲

小池村勇七 文化元年(1804)に起きた牛久助郷一揆の頭取。水戸街道の牛久宿(現在の茨城県牛久市)のために周辺農村から人馬を徴発する助郷(すけごう)の拡大に反対し、55か村の農民6千人が女化原(おなばけはら)で集会し、牛久宿問屋の屋敷などを打ち壊した。土浦藩などの出兵で鎮圧され、小池村勇七は獄門、同村吉重郎および桂村兵右衛門が遠島と決まるが、既に全員が獄死した後となった。 ▲

上月平左衛門 江戸時代の播磨国神西郡新野村(今の兵庫県神崎郡神河町)の大庄屋。交代寄合池田氏領で重税に苦しむ農民のため幕府に越訴しようとして役人に斬殺され、現地で「首切り地蔵」に祀られたとの伝承がある。 ▲

小林勘次 江戸時代初期の山城国伏見町(今の京都府京都市)の薪炭商で、淀川の船銭(通行料)の値上げで難儀する民衆に代わり、江戸に上って幕府に訴えて朱印状を勝ち取ったとされる。明治時代に伏見の薪炭商共進組合が伏見義民として顕彰し、石碑を建立した。 ▲

小林孫左衛門 江戸時代中期の信濃国佐久郡田野口村(今の長野県佐久市)の割元。宝暦4年(1754)の凶作の際に陣屋を囲んで年貢減免を強訴した農民をなだめ奥殿藩との調整に当たるが、一揆の首謀者とみなされ処刑された。 ▲

小山弥兵衛 江戸時代中期の但馬国朝来郡野村(今の兵庫県朝来市)年寄役。年貢減免を求め生野代官所支配の村々が蜂起した元文3年(1738)の「生野一揆」で壱岐に遠島となり、半世紀後に祖父を慕い来島した孫娘に対面した。 ▲

小和田組源右衛門 江戸時代中期の備後国恵蘇郡小和田組(今の広島県庄原市)百姓。天明の一揆において福田組百姓・市三郎とともに発頭人となり、広島藩に年貢減免などを約束させるが、山王原で獄門となった。 ▲

昆野八郎右衛門 陸奥国磐井郡釘子村の肝煎。重税で疲弊する農民を救うため仙台藩主に直訴を行うが捕らえられて刑死。その後釘子村では年貢が軽減され穀納から金納に変わったといい、明治時代に義民として顕彰するため昆野八郎右エ門神社が建てられた。 ▲
