「か」からはじまる義民

肱川
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このページは名前の読みが「か」行ではじまる義民を紹介しています。

加賀屋弥左衛門 江戸末期の出羽国田川郡大山村(今の山形県鶴岡市)の造り酒屋。弘化元年(1844)に発生した、大山・余目・丸岡の幕府領が庄内藩預地となることに反対する「大山騒動」の首謀者として獄門を申し渡されるが、既に牢死した後と伝わる。江戸で牢死した弥左衛門ら5名の供養塔が大山地区の銅片町集会所に残る。 

大山騒動義民供養塔(加賀屋弥左衛門と大山騒動)
弘化元年(1844)、出羽国大山地方(今の山形県)を庄内藩預地とする幕命が下り、増税を恐れた幕府領73か村の百姓数千人が...

片岡治兵衛 江戸時代初期の丹波国何鹿郡報恩寺村(今の京都府福知山市)庄屋。獣害による年貢減免を福知山藩主・稲葉紀通に求めるも、同地を猪狩りに訪れた藩主の面前に猪が1頭も姿を見せず、「桶伏せ」の刑に処せられたという。 

らん塔碑(片岡治兵衛と桶伏せの伝承)
慶安元年(1648)、丹波国報恩寺村(今の京都府福知山市)で猪による農作物の被害があり、庄屋・片岡治兵衛が年貢減免を求め...

片岡万平 常陸国河内郡生板村(まないたむら、今の茨城県稲敷郡河内町)の百姓。代官の吉岡次郎右衛門が凶作時に重税を課したため、文化14年(1817)、天領8か村の百姓463人で江戸の代官屋敷に門訴を行う。片岡万平のほか、同村の石山市左衛門・成毛与五右衛門の3人で幕府勘定奉行にも越訴し、捕らえられて吟味中に獄死。文政6年(1823)に供養のための法華塔が地元の妙行寺境内に建てられており、「生板の三義人」として知られる。 

生板の三義人供養塔(片岡万平と生板一揆)
文化14年(1817)、凶作下で重税を課せられた常陸国河内郡生板まないた村(今の茨城県稲敷郡河内町)の百姓・片岡万平らが...

片山弥右衛門 江戸時代後期の長門国阿武郡吉部村(今の山口県阿武郡むつみ村)畔頭。蔵置籾の取違えを巡る争論をきっかけに天保2年(1831)の「防長大一揆」における奥阿武宰判の発頭人として処刑された。 

天保大一揆発祥之地碑(吉部村弥右衛門と防長大一揆)
天保2年(1831)、長州藩の専売制強化などへの不満から、周防・長門(今の山口県)両国の約10万人が参加する全藩一揆「防...

金子重右衛門 江戸時代中期の甲斐国八代郡金田村(今の山梨県笛吹市)の長百姓。寛政4年(1792)、甲斐国内の田安家領における不正徴税に対抗して起きた「太枡騒動」の首謀者として捕らえられ、日川河原で獄門に懸けられる。文久年間に「金重大明神」として祀る小祠が建てられた。 

金重大明神(金子重右衛門と太枡騒動)
寛政4年(1792)、甲斐国(今の山梨県)田安領で八代郡金田村(今の笛吹市)長百姓・金子重右衛門らが年貢徴収に係る代官所...

蒲戸砂川 江戸時代後期の琉球国の仲筋村(今の沖縄県宮古郡多良間村)の農民。役人の不正徴税を他の4人とともに琉球王府に直訴する「多良間騒動」を起こしたが、役人は処分され、自身は官位を賜る。 

人頭税石(蒲戸砂川と多良間騒動)
1854年、琉球国の多良間島(今の沖縄県宮古郡多良間村)では役人が不正に税を取り立てたことから、蒲戸砂川(かまどうるか)...

上大野村武左衛門 江戸時代後期の伊予国宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)の百姓。寛政5年(1793)、伊予吉田藩の紙専売制などに反対する「武左衛門一揆」の頭取として獄門となる。 

武左衛門大いちょう(上大野村武左衛門と吉田騒動)
寛政5年(1793)、伊予国(愛媛県)吉田藩の紙専売制に反対し、宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)百姓・武左衛門...

上新田村藤助 江戸時代中期の信濃国高井郡上新田村(今の長野県飯山市)の年番組頭。安永6年(1777)に年貢皆済時期を巡り高井・水内両郡の幕府中野代官所支配の村々が蜂起した「安永中野騒動」の頭取として獄門となる。 

横吹地蔵尊(上新田村藤助と安永中野騒動)
安永6年(1777)、年貢皆済期日の前倒しを命じられた信濃国(今の長野県)中野陣屋支配の村々が蜂起し、近隣諸藩の出兵によ...

河合伊左衛門 江戸時代前期の三河国渥美郡中山村(今の愛知県田原市)の大庄屋。小庄屋の河合久右衛門とともに「伊左久右」とも呼ぶ。不作・不漁による百姓の困難を救うため、立木払下げを求めて領主に越訴するが、代官の讒言で処刑されたという。怨霊が虫害を起こすとして大施餓鬼が行われる起源にもなった。 

川合伊左衛門・川合久右衛門之碑(義民伊左久右の伝承)
天和元年(1681)、不漁・不作による困窮から三河国渥美郡中山村(今の愛知県田原市)庄屋の河合伊左衛門らが御領林の立木払...

河合清右衛門 江戸時代前期の三河国渥美郡野田村(今の愛知県田原市)組頭。野田村が下草刈りなどに利用していた比留輪山を巡り隣村の赤羽根村(同)と対立し、幕府に越訴の末に獄門となったが、勝訴により権益を確保した。 

留魂之地碑(河合清右衛門と比留輪山騒動)
三河国渥美郡野田村と赤羽根村(いずれも今の田原市)の両村では、しばしば比留輪山を巡る山論が発生していました。寛文13年(...

川口市郎兵衛 江戸時代前期の駿河国富士郡青島村(今の静岡県富士市)の名主。延宝9年(1681)の検地に反対して磔刑に処せられる。その後密かに青島八幡神社(磔八幡)に合祀されるが、将軍・徳川家治の時代に赦免され奉幣を受けたという。 

青嶋八幡宮神社(川口市郎兵衛と磔八幡の伝承)
天和元年(1681)、駿河国富士郡青島村(今の静岡県富士市)名主・川口市郎兵衛は、検地に反対して役人を立ち入らせず、鈴ヶ...

川崎久左衛門 江戸時代前期の和泉国南郡沼村(今の大阪府岸和田市)庄屋。岡部宣勝の襲封に当たり年貢減石を強訴して斬首される。岸和田だんじり祭の囃子詞「おっしゃんしゃん」は御庄屋様の謂で報恩のためという。 

川崎久左衛門供養塔(川崎久左衛門と岸和田領強訴)
寛永17年(1640)、国替えに伴い年貢負担が増大することを恐れた岸和田藩の領民たちは、和泉国(大阪府)沼村庄屋・川崎久...

川戸喜八 江戸時代中期の伊勢国鈴鹿郡辺法寺村(今の三重県亀山市)百姓。重税の免除を求め明和5年(1768)に起きた亀山藩領83か村による一揆「亀山騒動」の補佐頭取として総大将の真弓長右衛門らとともに斬罪に処せられた。 

義民喜八の碑(辺法寺村喜八と亀山騒動)
明和5年(1768)、伊勢国(今の三重県)亀山藩領の百姓5千人以上が藩の年貢増徴に反対する一揆を起こし、代官罷免などを認...

菅野八郎 陸奥国伊達郡金原田村(今の福島県伊達市)の農村思想家。神君家康公の夢告として幕府に海防を献策し、安政の大獄で八丈島に遠島となる。赦免後は故郷で農民を集め自衛組織「誠心講」を立ち上げたが、慶応2年(1866)に信夫・伊達両郡で発生した「信達騒動」の指導者と見られて入牢した。 

菅野八郎自刻之碑(菅野八郎と信達世直し一揆)
慶応2年(1866)、幕府が生糸・蚕種の売買に改印制を導入して冥加金を徴収しようとしたことに反対し、陸奥国信夫・伊達両郡...

木内惣五郎 江戸前期の下総国公津村の名主。本名は木内惣五郎といい、重税に苦しむ百姓に代わり、承応元年(1652)に佐倉藩の悪政を将軍に直訴して妻子ともども処刑されたと伝わる。後に藩主・堀田正信が改易されたのは惣五郎の祟りとされ、堀田家でも口の明神に惣五郎を祀った。後に『佐倉義民伝』として歌舞伎や講談・浪曲などの文芸のモチーフとして大衆に広まった。 

宗吾霊堂(木内惣五郎と佐倉宗吾一揆)
承応2年(1652)、下総国印旛郡公津村(今の千葉県佐倉市)の名主であった木内惣五郎は、佐倉藩の悪政を将軍に直訴し、処刑...

義少年 江戸時代前期の周防国吉敷郡恋路村(今の山口県山口市)にいた2人の少年で名は不詳。寛文年間、上流の井手を切って旱害から村を救い、藩主にも窮状を直訴して要求を認めさせたが処刑され、石仏碑に祀られたという。 

義少年合同の碑(二義少年と恋路・七房村水論)
江戸時代前期の寛文年間、周防国恋路村(今の山口県山口市)の2人の少年が、旱害に悩む村人のために宮野川上流の井手を切り、無...

北市村源右衛門 江戸時代中期の越中国砺波郡北市村(今の富山県南砺市)百姓・孫九郎の二男。宝暦7年(1757)、米価高騰をきっかけに城端町(同)で米屋が打ちこわされた「北市騒動」の頭取として自宅前で磔刑に処せられた。 

北市騒動供養塔(北市村源右衛門と北市騒動)
宝暦7年(1757)、凶作による米価高騰を機に越中国城端町(今の富山県南砺市)の米屋が打ちこわされる「北市騒動」が起こり...

北沢清兵衛 江戸時代中期の信濃国水内郡地京原村(今の長野県長野市)の百姓で元村役。浅間山噴火による不作の状況下、松代藩の山中地域の百姓が大挙して酒屋から押借をした「天明山中騒動」の責を負い永牢の処分を受けた。 

天明山中騒動記念碑(北沢清兵衛と天明山中騒動)
浅間山大噴火の影響が残る天明4年(1784)、信濃国松代藩領の山中地方(今の長野県)の百姓たちが「天明山中騒動」を起こし...

北野孫兵衛 江戸時代初期の周防国玖珂郡本郷村(今の山口県岩国市)庄屋。長州藩の慶長検地と高免に反発し、慶長13年(1608)、山代郷10か村の庄屋連名で代官所に愁訴し、年貢率は引き下げられたが引地峠で処刑されたという。 

建立寺(北野孫兵衛と山代慶長一揆)
慶長13年(1608)、長州藩の慶長検地と高率な年貢に対する反発から、周防国玖珂郡本郷村(今の山口県岩国市)庄屋・北野孫...

北野村藤九郎 江戸時代中期の美作国勝北郡北野村(今の岡山県勝田郡奈義町)西分の高持百姓。同村東分高持百姓・与三右衛門とともに、元文3年(1739)の「勝北非人騒動」の発頭人として死罪になった。 

元文一揆発頭人慰霊碑(北野村藤九郎と横仙一揆)
元文4年(1739)、不作が続く美作国勝北郡(今の岡山県)の幕府領で百姓3千人が蜂起し、野非人の扮装で富家に押し掛け米や...

義民四人衆 享保3年(1718)、入会山を岡田藩が留山としたことに反対し、備中国下道郡新庄村・本庄村(いずれも今の岡山県総社市)の惣代として藩主に直訴し処刑された4人を指す。この事件は「新本義民騒動」と呼ばれる。 

新本義民碑(義民四人衆と新本義民騒動)
享保3年(1718)、岡田藩に入会山を接収された備中国下道郡新庄村・本庄村(いずれも今の岡山県総社市)の百姓惣代4人が江...

義民六人士 江戸時代前期の筑前国宗像郡津屋崎村(今の福岡県福津市)浦庄屋・佐兵衛ら6人をいう。津屋崎・勝浦間の漁場争いで福岡藩に直訴し漁場拡大に成功するも、寛永17年(1640)に全員が処刑された。 

六之神社(浦庄屋佐兵衛と津屋崎・勝浦漁場相論)
隣浦との漁場争いが絶えなかった筑前国宗像郡津屋崎村(いまの福岡県福津市)では、浦庄屋・佐兵衛(左兵衛)ら6人が福岡藩に直...

工藤治兵衛 江戸時代初期の伊予国新居郡中奥山(今の愛媛県西条市)庄屋。寛文4年(1664)、米価高騰を契機に年貢銀納を求めて藩庁に強訴、嬰児含め16人が処刑された。後に西条藩一柳家は改易となり、生き残った庄屋の嘆願活動で銀納も認められたため、「銀納義民」として顕彰された。 

治兵衛堂(工藤治兵衛と大保木騒動)
江戸時代前期の寛文4年(1664)、米が穫れず難儀をしていた石鎚山麓の村々では、年貢米の銀納を求め、中奥山庄屋・工藤治兵...

蔵川村吉右衛門 江戸時代中期の伊予国喜多郡蔵川村(今の愛媛県大洲市)平百姓。明和7年(1770)、蔵川村百姓160人が宇和島藩領に逃散した「蔵川騒動」の頭取として、同村の新之丞とともに自首し、荒間地峠に梟首された。 

義人の碑(蔵川村吉右衛門と蔵川騒動)
明和7年(1770)、凶作が続く大洲藩領の伊予国喜多郡蔵川村(今の愛媛県大洲市)では、多数の百姓が宇和島藩領に逃散する「...

小池村勇七 文化元年(1804)に起きた牛久助郷一揆の頭取。水戸街道の牛久宿(現在の茨城県牛久市)のために周辺農村から人馬を徴発する助郷(すけごう)の拡大に反対し、55か村の農民6千人が女化原(おなばけはら)で集会し、牛久宿問屋の屋敷などを打ち壊した。土浦藩などの出兵で鎮圧され、小池村勇七は獄門、同村吉重郎および桂村兵右衛門が遠島と決まるが、既に全員が獄死した後となった。 

牛久助郷一揆道標(小池村勇七と牛久助郷一揆)
文化元年(1804)、水戸街道での助郷拡大に反対するため、常陸国信太郡小池村(今の茨城県稲敷郡阿見町)百姓・勇七らを筆頭...

上月平左衛門 江戸時代の播磨国神西郡新野村(今の兵庫県神崎郡神河町)の大庄屋。交代寄合池田氏領で重税に苦しむ農民のため幕府に越訴しようとして役人に斬殺され、現地で「首切り地蔵」に祀られたとの伝承がある。 

首切り地蔵(上月平左衛門と新野村越訴)
宝永5年(1708)、播磨国神西郡新野村(今の兵庫県神崎郡神河町)の大庄屋・上月平左衛門は、重税に苦しむ農民のため幕府に...

小林勘次 江戸時代初期の山城国伏見町(今の京都府京都市)の薪炭商で、淀川の船銭(通行料)の値上げで難儀する民衆に代わり、江戸に上って幕府に訴えて朱印状を勝ち取ったとされる。明治時代に伏見の薪炭商共進組合が伏見義民として顕彰し、石碑を建立した。 

伏見義民小林勘次碑(小林勘次と伏見町越訴)
元和4年(1618)、淀川の船銭が値上げされ、伏見の商人や旅人が難儀するのを見た山城国伏見町(今の京都府京都市)の薪炭商...

小林孫左衛門 江戸時代中期の信濃国佐久郡田野口村(今の長野県佐久市)の割元。宝暦4年(1754)の凶作の際に陣屋を囲んで年貢減免を強訴した農民をなだめ奥殿藩との調整に当たるが、一揆の首謀者とみなされ処刑された。 

義人小林孫左衛門之碑(小林孫左衛門と田野口領一揆)
宝暦4年(1754)、奥殿藩の飛び地であった信濃国佐久郡田野口村(今の長野県佐久市)において、年貢減免を求める百姓が陣屋...

小山弥兵衛 江戸時代中期の但馬国朝来郡野村(今の兵庫県朝来市)年寄役。年貢減免を求め生野代官所支配の村々が蜂起した元文3年(1738)の「生野一揆」で壱岐に遠島となり、半世紀後に祖父を慕い来島した孫娘に対面した。 

心諒尼公園(小山弥兵衛と生野一揆)
元文3年(1738)、凶作が続く但馬国(今の兵庫県)生野代官所支配の村々では、年貢減免や夫食拝借を求めて約3千人が代官所...

小和田組源右衛門 江戸時代中期の備後国恵蘇郡小和田組(今の広島県庄原市)百姓。天明の一揆において福田組百姓・市三郎とともに発頭人となり、広島藩に年貢減免などを約束させるが、山王原で獄門となった。 

源右衛門・市三郎の墓(小和田組源右衛門と恵蘇郡一揆)
天明6年(1786)、備後国(今の広島県)恵蘇郡で飢饉と村役人の不正を理由に百姓が蜂起し、およそ5千人が山王原に集結しま...

昆野八郎右衛門 陸奥国磐井郡釘子村の肝煎。重税で疲弊する農民を救うため仙台藩主に直訴を行うが捕らえられて刑死。その後釘子村では年貢が軽減され穀納から金納に変わったといい、明治時代に義民として顕彰するため昆野八郎右エ門神社が建てられた。 

昆野八郎右エ門神社(昆野八郎右衛門と釘子村越訴)
天和2年(1682)、陸奥国磐井郡釘子村(今の岩手県一関市)の地肝煎・昆野八郎右衛門は、重税で疲弊する農民を救うため仙台...