「あ」からはじまる義民

穴井六郎右衛門像
このページは名前の読みが「あ」行ではじまる義民を紹介しています。

赤尾丹治 江戸時代後期の豊前国宇佐郡赤尾村(今の大分県宇佐市)大庄屋の養子。岡藩から起こった「文化⼀揆」に触発され、桂掛井堰の建設に係る加免撤廃を求めて中津藩への強訴に及び、文化9年(1812)に打首獄門となる。 

赤尾丹治翁顕徳碑(赤尾丹治と文化一揆)
岡藩から起こった「文化大一揆」の影響を受け、文化9年(1812)、豊前国(大分県)でも井堰工事に係る加免や新税賦課に反対する百姓が蜂起し、庄屋宅などを打ちこわしました。この一揆の首謀者として下赤尾村丹治らが処刑され、近代以降、墓碑や顕彰碑が...

赤松源右衛門 江戸時代中期の丹後国加佐郡二箇村(今の京都府福知山市)大庄屋。享保18年(1733)、田辺藩に年貢率引下げなどを要求した享保一揆を指導し獄門となる。弟の佐兵衛とともに「赤松義民」と呼ばれ、稲荷社に祀られた。 

光国稲荷(赤松源右衛門と享保一揆)
享保18年(1733)、丹後国(京都府)田辺城下で年貢率引下げや夫食米貸与を要求する「享保一揆」が起こり、藩は役人を罷免するとともに百姓側の要求を認めました。後になって二箇村大庄屋・赤松源右衛門が捕らえられて獄門に処せられたため、村人たちは...

朝来村三兵衛 江戸時代後期の伊国牟婁郡朝来村(今の和歌山県西牟婁郡上富田町)の人。毛見に当たり郡奉行・代官で重複する巡見は無益と主張し、簀巻きにされ海中に投じられたという伝説を残す。 

朝来村三兵衛墓(三兵衛の義民伝承)
江戸時代、紀州藩田辺領内では郡奉行と代官による毛見が重複して行われており、接待に当たる百姓の煩いの種となっていました。紀伊国朝来村(今の和歌山県上富田町)の三兵衛は、郡奉行の毛見は無益と主張し、簀巻きにされ海中に沈められたと伝えられています...

穴井六郎右衛門 江戸時代中期の豊後国日田郡馬原村(今の大分県日田市)の庄屋。江戸に出て幕府代官の苛政を幕府に直訴し、訴状は受理されたものの、帰国後に捕縛されて死罪獄門に処せられた。 

馬原供養塔(穴井六郎右衛門と馬原騒動)
延享3年(1746)、豊後国日田郡馬原(まばる)村(今の大分県日田市)庄屋・穴井六郎右衛門ら3人は、幕府日田代官・岡田庄太夫俊惟(としただ)の苛政に対抗し、年貢減免と夫食米借用を求めて江戸で越訴に及びました。いったん帰国した一同は代官に捕ら...

新井宿義民六人衆 武蔵国荏原郡新井宿村で、領主の旗本・木原義永の悪政を幕府に直訴しようとして果たせず、延宝5年(1677)に江戸の木原邸で斬首された犠牲者6名をいう。重税のため借金をする窮状を綴った「新井宿村名主惣百姓等訴状写」は東京都の指定有形文化財となっている。また、遺骸を密かに埋葬した墓は東京都大田区の善慶寺にある。 

義民六人衆の墓(義民六人衆と新井宿村越訴事件)
延宝5年(1677)、武蔵国荏原郡新井宿村(今の東京都大田区)の間宮太郎兵衛ら6人が、旗本・木原義永の悪政を幕府に直訴しようとして未遂に終わり、全員が木原邸で斬首される事件が起こりました。後に親類の間宮藤八郎は、両親の墓という名目でこれら「...

有田村吉左衛門 江戸時代中期の安芸国山県郡有田村(今の広島県山県郡北広島町)百姓。享保3年(1718)広島藩領の「享保一揆」で頭取となり、藩に頭庄屋廃止や定免制撤廃などを認めさせたが、後に獄門の刑に処せられた。 

義人吉左衛門の碑(有田村吉左衛門と広島藩享保一揆)
広島藩では5代藩主・浅野吉長の時代、豪農を所務役人や頭庄屋に任命し、定免制を採用するなどして農村支配の強化を図りました。こうした「正徳新格」に反発し、享保3年(1718)には安芸・備後両国(おおむね今の広島県)にまたがる30万人規模の「享保...

生田万 江戸時代後期の国学者で上野国(今の群馬県)館林藩士・生田信勝の長男。藩政の腐敗を批判して追放された後、越後国刈羽郡柏崎町(今の新潟県柏崎市)で私塾・桜園塾を開く。「天保の大飢饉」による米価高騰を憂い、天保8年(1837)、「大塩平八郎の乱」に呼応して柏崎陣屋を襲撃し、自刃して果てた。 

生田万の墓碑(生田万の乱)
天保8年(1837)、大坂で起こった「大塩平八郎の乱」に触発され、天保の飢饉による惨状を憂いた国学者・生田万が同志を募り、越後国柏崎町(今の新潟県柏崎市)にあった桑名藩の柏崎陣屋を襲撃しました。この「生田万の乱」は長岡藩の加勢により鎮圧され...

池田三郎左衛門 江戸時代初期の上総国望陀郡田川村(今の千葉県木更津市)の名主。慶長検地による増税を受けて幕府に再検地を直訴し、租税の軽減が図られるものの、強訴として死罪となった。地元の十王堂に木像があり、おびんずる(賓頭盧)さまとして祀られている。 

池田三郎左衛門之碑(池田三郎左衛門の強訴)
慶長16年(1611)、増税に苦しむ上総国望陀郡田川村(今の千葉県木更津市)の名主・池田三郎左衛門は、十数度にわたって幕府に再検地を求め、願いは認められたものの、強訴の罪をもって処刑されたと伝えられています。地元には池田三郎左衛門の木像を安...

池田徳右衛門 江戸時代中期の美作国真島郡仲間村牧分(今の岡山県真庭市)の人。享保11年(1726)から翌年にかけての津山藩領「山中一揆」を指導し、一時要求を認めさせたが、藩の方針転換により鎮圧され、院庄河原で処刑された。 

首なし地蔵(牧の徳右衛門と山中一揆)
享保11年(1726)、津山藩主が夭折し減封が見込まれる中、大庄屋や藩役⼈が郷蔵の米を持ち出そうとした事件を契機として、この翌年にかけて美作国山中地方(今の岡山県北部)で4千⼈規模の惣百姓⼀揆「山中一揆」が発生します。津山藩は武力鎮圧の方針...

石上清兵衛 江戸時代前期の駿河国志太郡高柳村(今の静岡県藤枝市)の庄屋。田中藩に年貢減免を訴願し、25歳にして茶屋河原で処刑されたと伝わる。茶屋河原に清兵衛地蔵が残るほか、明治時代に地元寺院に木像が奉納されている。 

清兵衛地蔵(石上清兵衛と高柳村訴願)
元禄5年(1692)、駿河国志太郡高柳村(今の静岡県藤枝市)の庄屋・石上清兵衛は、数年来の不作を理由として、田中藩の代官に年貢減免を訴願しました。代官に首と引換えにと脅された清兵衛は動じることなく、元禄5年(1692)3月4日に茶屋河原で打...

磯部村清太夫 江戸中期の常陸国磯部村(今の茨城県桜川市)名主で磯部神社神主。寛延2年(1749)、山外郷27か村から千人の百姓が笠間城下で年貢減免の強訴を行った山外郷一揆の頭取として獄門となる。 

義民地蔵(磯部村清太夫と山外郷一揆)
寛延2年(1749)、笠間藩は凶作下で定免法への切替えを強行したため、常陸国茨城郡磯部村(今の茨城県桜川市)名主で磯部神社神主の清太夫ら山外郷27か村1千人が笠間城下で強訴に及びました。藩は一旦は要求を認めるものの、その後態度を一変して清太...

板橋政右衛門 江戸幕末の横浜開港から続く米価騰貴を受けて、那須烏山の農民たちが明治2年(1869)に畑年貢の米納から金納(永納)への変更を烏山藩や新政府の弾正台などに訴願した際の代表者。訴願は実らず流刑となり後に釈放されるが、その顛末は宮原八幡宮境内に建つ「圃租法変更紀念碑」などから知られる。 

圃租法変更紀念碑(板橋政右衛門と畑方永納一件)
明治2年(1869)、下野国那須郡大沢村(今の栃木県那須烏山市)の板橋政右衛門らは、畑年貢の金納を求めて烏山藩や新政府の弾正台に訴願し、流刑に処せられました。その後の地租改正により結果として目的を果たしたことから、明治35年(1902)に有...

市毛藤衛門 常陸国茨城郡上吉影村の庄屋。水戸藩宝永改革による年貢増徴や運河建設における賃金未払いなどに端を発した「水戸藩宝永一揆」の頭取として江戸藩邸に強訴し、改革の責任者だった松波勘十郎らを罷免に追い込んだ。 

勘十郎堀(市毛藤衛門と水戸藩宝永一揆)
宝永6年(1709)、松波勘十郎を登用して宝永改革を進める水戸藩では、運河開削の労役や賃金未済を巡る百姓の不満が爆発し、支藩・守山藩への強訴が発生しました。この「水戸藩宝永一揆」では、常陸国茨城郡上吉影村(今の茨城県小美玉市)庄屋・市毛藤衛...

市原清兵衛 江戸時代後期の丹波国多紀郡市原村(今の兵庫県丹波篠山市)の人。寛政12年(1800)、江戸で篠山藩主・青山忠裕(ただやす)に酒造の出稼ぎ解禁を直訴し認めさせた。近代に入ると丹波杜氏の功労者として顕彰された。 

義民清兵衛之碑(市原清兵衛の直訴事件)
寛政12年(1800)、丹波国多紀郡市原村(今の兵庫県丹波篠山市)の清兵衛は、篠山藩の出稼ぎ禁止令で杜氏らが困窮していると藩主・青山忠裕に直訴し入牢するものの、禁令は享和2年(1802)年に緩和されました。近代には丹波杜氏の救世主として清兵...

井上吉右衛門 江戸時代中期の河内国丹南郡北野田村(今の大阪府堺市)庄屋。不作を理由に拝借金や夫食米下付を丹南藩に強訴した明和6年(1769)の郷中騒動で役儀追放となるが、死後その徳を讃え「迎え地蔵尊」に祀られた。 

迎え地蔵尊(井上吉右衛門と郷中騒動)
明和6年(1769)、不作に見舞われた河内国(大阪府)丹南藩領では、多数の百姓が屯集して寄合を開くなど不穏となり、村役人の中にも年貢納入を拒否する者が現れました。この「郷中騒動」では多数の庄屋らが牢死したほか、北野田村庄屋・井上吉右衛門らが...

伊深義⺠ 美濃国加茂郡伊深村(今の岐阜県美濃加茂市)では不作が続いて生活に困窮する百姓が増えたため、天和2年(1682)に年貢減免を求めて幕府に越訴し、多数が打首または獄死を遂げた。この「伊深義民事件」による犠牲者をいい、現地には後の領主が建てた石地蔵や供養碑が残る。 

義民供養の石地蔵(伊深義民事件)
天和2年(1682)、旗本・佐藤継成の知行所だった美濃国加茂郡伊深村(今の岐阜県美濃加茂市)では、不作で困窮した百姓らの代表が江戸に上りに年貢減免を幕府目付に越訴し、うち多数が牢死又は死罪となりました。現地には「伊深義民の碑」と称する供養碑...

今村久兵衛 江戸時代前期の伊予国久米郡片平村(今の愛媛県松山市)里正。寛永7年(1630)の干魃の際、松山藩に検見による年貢減免を求めるが、村人が検見前に勝手に不作の稲を焼き払ったことから課税逃れを疑われ磔となった。 

若宮社(今村久兵衛と片平騒動)
寛永7年(1630)、伊予国久米郡片平村(今の愛媛県松山市)で干魃が起こり、里正(庄屋)の今村久兵衛が検見の上で年貢を減免するよう代官に願い出ますが、聞き届けられることはありませんでした。そこで自暴自棄になった村人が田に火を掛けて不作の稲を...

岩野平左衛門 江戸時代前期の上総国天羽郡百首村(今の千葉県富津市)の名主。旗本の秋元隼人正時朝が重税を取り立てたことに抗議して延宝8年(1680)に処刑され、死後に「岩平大権現」として祀られる。松翁院境内に墓とされる石仏が残る。 

岩野平左衛門の墓(岩野平左衛門の義民伝承)
延宝8年(1680)、上総国天羽郡百首村(今の千葉県富津市)名主の岩野平左衛門は、重税を賦課する旗本・秋元隼人正に諌言して処刑されたと伝わります。その後、祟りにより火災が頻発したことから、平左衛門は火防の神「岩平大権現」として祀られました。

岩本源三 江戸時代後期の壱岐国壱岐郡可須村(今の長崎県壱岐市)百姓。地割などに関する平戸藩役人の不正を将軍・徳川家斉に直訴し捕縛され、文政3年(1820)に壱岐島内の百間馬場で処刑されたと伝わる。 

源三神社(岩本源三と可須村越訴)
江戸時代の壱岐島は松浦藩が支配していましたが、役人が年貢を計量する枡を操作して蓄財したり、農民に田地を割り当てる地割で不正をしたとして、文政2年(1819)、壱岐国壱岐郡可須村(今の長崎県壱岐市)百姓の岩本源三が江戸に上って将軍・徳川家斉に...

因尾村杢右衛門 江戸時代後期の豊後国海部郡因尾村(今の大分県佐伯市)百姓。文化9年(1812)、佐伯藩領7か村の百姓が蜂起して大庄屋宅などを打ちこわし年貢軽減などを強訴した「文化一揆」の頭取として同年中に処刑された。 

杢右衛門の供養塔(因尾村杢右衛門と文化一揆)
文化9年(1812)、重税に苦しむ豊後国海部郡因尾(いんび)村(今の大分県佐伯市)ほかの百姓4千人が、「願望拾ヶ条」を掲げ強訴に及ぶ「文化一揆」が勃発します。佐伯藩では家老・戸倉織部らを出張させて百姓側と交渉し、願いの趣旨を認めましたが、そ...

内田馬之丞 江戸時代前期の紀伊国那賀郡打田村(今の和歌山県紀の川市)にあった中ノ宮神社の神官。慶安2年(1649)、過酷な年貢に喘ぐ村人のために紀州藩主に直訴し、後に「恩徳堂」が建てられたという。 

恩徳碑(内田馬之丞と打田村越訴)
江戸時代前期、紀伊国打田村(今の和歌山県紀の川市)では検地役人の怨恨から重税が課せられるようになったため、慶安2年(1649)、神官・内田馬之丞が和歌山藩主・徳川頼宣に直訴し、年貢は元に戻されました。馬之丞は明和年間に「恩徳堂」に祀られまし...

畝原覚之丞 江戸時代前期の延岡藩家老の被官で、日向国臼杵郡山陰村(今の宮崎県日向市)の住人。元禄3年(1690)の「山陰百姓一揆」の際、逃散百姓を連れ戻すよう藩命を受けたが佐土原藩領に逃亡し、江戸で獄死した。 

山陰百姓一揆供養塔(畝原覚之丞と山陰一揆)
元禄3年(1690)、郡代の苛政に耐えかねた日向国臼杵郡山陰村(今の宮崎県日向市)の百姓たちが延岡藩領から高鍋藩領へと逃散し、幕府裁定で多数が処罰されました。その一方で藩主・有馬清純も越後国(今の新潟県)糸魚川藩に転封となったことから、後に...

遠藤藤五郎 江戸時代末期の駿河国有度郡三保村(今の静岡県静岡市清水区)の小前百姓。安政の大地震による困窮の中、土地の開墾を巡り領主の御穂神社と対立し幕府に越訴した。その後獄死したため藤五郎神社に祀られた。 

藤五郎神社(遠藤藤五郎と三保村越訴)
江戸末期の安政の大地震は農地にも甚大な被害を及ぼしましたが、駿河国有度郡三保村(今の静岡県静岡市清水区)一帯では海岸が隆起して新たな土地を生じたたため、困窮する小前百姓らは三保村の藤五郎(遠藤藤五郎)を代表として、領主である御穂神社神官の太...

遠藤兵内 江戸中期の武蔵国児玉郡関村(今の埼玉県児玉郡美里町)の名主。関村兵内ともいう。幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことへの反発から、明和元年(1764)から翌年にかけて発生した、武蔵・上野・信濃・下野の4か国20万人規模の大一揆「伝馬騒動」の首謀者として獄門に処された。 

関兵霊神社(遠藤兵内と伝馬騒動)
幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことを端緒として、明和元年(1764)から翌年にかけて、武蔵・上野・信濃・下野4か国20万人が参加する大一揆「伝馬騒動」が勃発しました。幕府は百姓側の要求を全面的に受け入れ事態を収拾しましたが、後日、武...

大塩平八郎 江戸時代後期の陽明学者・元大坂町奉行与力。天保の大飢饉に当たり無策を続ける奉行所や私欲に走る豪商に憤り、大坂市中で「大塩平八郎の乱」を起こしたが、幕府軍に敗れ潜伏先で爆死した。庶民からは「大石様」と崇められ、越後国柏崎の「生田万の乱」、摂津国能勢の「能勢騒動」にも波及した。 

大塩平八郎の墓(大塩平八郎の乱)
天保8年(1837)、「天保の飢饉」に対する幕府の無策と私欲に走る豪商らに憤慨し、元大坂町奉行与力で陽明学者の大塩平八郎が門人らとともに大坂市中で反乱を起こしました。この「大塩平八郎の乱」は1日で鎮圧され、大坂市中の5分の1が焼失したほか、...

大竹半十郎 江戸中期の陸奥国白川郡上野出島村(今の福島県白河市)の一揆指導者。寛政10年(1799)、越後高田藩領だった陸奥国白川・田村・石川・岩瀬4郡の村々において大庄屋や駒付役らの中間搾取に憤った百姓が蜂起した浅川騒動の頭取となり、翌年打首に処せられた。浅川の花火は一揆犠牲者の供養を目的に始まったとの説がある。 

浅川陣屋刑場跡碑(大竹半十郎と浅川騒動)
寛政10年(1798)、高田藩領である浅川陣屋支配の村々において、大庄屋や駒付役らによる年貢諸役の私的流用に憤った百姓が蜂起する「浅川騒動」が起こりました。藩は大庄屋らを罷免したものの、一揆首謀者として陸奥国白川郡上野出島村(今の福島県白河...

大竹与茂七 江戸時代中期の越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)名主。大庄屋の不正を新発田藩に訴えるが、釘抜きで歯を抜かれる拷問の末、大庄屋へ非義を申し掛けたとして獄門となる。後の新発田城下の大火は怨霊による「与茂七火事」と噂され、諏訪神社末社の五十志霊神社に火伏せの神として祀られた。 

五十志霊神社(大竹与茂七と与茂七騒動)
正徳2年(1712)、越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)名主・大竹与茂七は、大庄屋の不正を新発田藩に訴えるものの、大庄屋へ非義を申し掛け徒党強訴に及んだとして翌年獄門となりました。後に与茂七を供養するための「与茂七地蔵」などが建てられ...

大多和四郎右衛門 江戸前期の上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主。干魃に際して佐倉藩の了承を得ずに米蔵を開いて百姓を救い、自らは責任をとって息子とともに道庭村の石切橋で自刃したといわれる。 

義人大多和四郎右衛門自刃之地碑(大多和四郎右衛門の切腹伝承)
寛永20年(1643)上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主・大多和四郎右衛門は、飢饉に際し佐倉藩の米蔵を無断で開き、百姓に米を分け与えると、その責を負って切腹したと伝えられています。戦後、四郎右衛門が切腹した石切橋の辺りには「義人大...

大西権兵衛 江戸時代中期の讃岐国三野郡笠岡村(今の香川県三豊市)の人。丸亀・多度津両藩の百姓が蜂起した寛延3年(1750)の「西讃農民一揆」の頭取として磔刑に処せられる。後に他の処刑者とともに「七人同志」と崇められた。 

七義士神社(大西権兵衛と西讃百姓一揆)
寛延3年(1750)、讃岐国(香川県)丸亀・多度津藩領では飢饉による年貢減免を求めて6万5千人規模の「西讃百姓一揆」が起こり、藩は要求の多くを認めたものの、後に三野郡笠岡村(今の三豊市)の大西権兵衛らが頭取として処刑されました。処刑された7...

岡村源兵衛 江戸前期の播磨国美嚢郡三木町(今の兵庫県三木市)の平田町大庄屋。豊臣秀吉以来の地子免除の特権を延宝検地で否定されたため、延宝6年(1678)、平山町年寄の大西与三右衛門と江戸で直訴に及んだ。 

義民碑と宝蔵(岡村源兵衛と延宝訴訟)
江戸幕府の「延宝検地」により豊臣秀吉以来の地子免除の特権を取り消されそうになった播磨国三木町(今の兵庫県三木市)では、平田町大庄屋・岡村源兵衛と平山町年寄・大西与三右衛門を惣代に選び、江戸へ出訴することとなりました。延宝6年(1678)には...

岡村権左衛門 江戸時代後期の越後国三島郡浦村(今の新潟県長岡市)の組頭。浦村を含む川西組9か村が天領から長岡藩領へと変更され年貢が増徴されたことから、寛政3年(1791)、村々が一味神水して傘連判状を作成し、年貢減免を長岡藩に訴えた。減免は認められたが頭取の権左衛門は獄門となった。 

義民岡村権左衛門碑(権左衛門騒動)
幕府領から長岡藩領への村替えにより年貢負担が増大した越後国三島郡川西組9か村(今の新潟県長岡市)は、寛政3年(1791)、浦村組頭・岡村権左衛門を頭取として代官所に年貢減免を訴えたところ、強訴徒党の罪により権左衛門のみが討首獄門の極刑に処せ...

小木曽猪兵衛 江戸時代末期の信濃国伊那郡今田村(今の長野県飯田市)の庄屋。白河藩の年貢増徴に対抗した安政6年(1859)の「南山一揆」を主導し、過去の一揆の事例を研究して百姓側の犠牲なしに要求を実現させた。 

宗吾大明神(小木曽猪兵衛と南山一揆)
安政6年(1859)、幕府領から白河藩領となり年貢負担が増大した信濃国南山郷では、今田村(今の長野県飯田市)庄屋・小木曽猪兵衛らの指導のもとに百姓が蜂起し、代官の罷免と天領並み相場での石代納を獲得しました。この「南山一揆」は百姓側の犠牲者を...

忍足佐内 江戸時代の安房国平郡金尾谷村の名主。安房勝山藩主・酒井忠隣に対して年貢減免と御国奉行・稲葉重佐衛門及び代官・藤田嘉内の不正を直訴(門訴)しようとして、かえって捕らえられて白塚川原で処刑された。その後も妻や母が幕府老中への駕籠訴を行うなどして不正が発覚し、稲葉・藤田両名は酒井家を追放となり、忍足家も再興された。明治時代の自由民権運動のなかで再評価され、処刑地近くに「義民忍足佐内殉難の碑」も建てられた。 

忍足佐内殉難の地碑(忍足佐内と西領騒動)
明和7年(1770)、安房国平郡金尾谷村(今の千葉県南房総市)名主の忍足佐内らは、年貢減免や腐敗役人の罷免を求めて勝山藩主・酒井忠隣の江戸屋敷に門訴し、打首となりました。その後、親族が幕府老中に駕籠訴して、ようやく奉行らの追放が実現したこと...

小沼庄左衛門 江戸前期の上野国山田郡台之郷村(今の群馬県太田市)の庄屋。延宝年間、館林藩の役人が年貢を不正に徴収したため、庄左衛門を含む18名が百姓惣代として江戸に赴き藩主に直訴し、訴えは認められたが、18名全員が磔刑に処せられた。 

日向義民地蔵(小沼庄左衛門と延宝の直訴)
延宝4年(1676)、上野国山田郡台之郷村(今の群馬県太田市)名主・小沼庄左衛門ら18人は、「目こぼれ」と称して館林藩の役人が年貢を横領したことを幕府に直訴しました。その後、18人の身柄は館林藩に引き渡され、全員が磔刑に処せられたことから、...

小村田之助 江戸時代初期の讃岐国山田郡小村(おもれ、今の香川県高松市)の庄屋。寛永20年(1643)、凶作を理由に年貢分納を高松藩に嘆願し認められるが、不遜として翌年斬罪に処せられた。 

義民小村田之助墓所(小村田之助の義民伝承)
寛永20年(1643)、讃岐国山田郡小村(おもれ)(今の香川県高松市)を干魃が襲い、庄屋の小村田之助は、皆済できなければ庄屋が私費で弁済する条件で困窮百姓の年貢分納を高松藩に提案しました。しかし、庄屋の分際で不遜として翌年斬首され、幕末にな...

折立長老 江戸時代初期の信濃国伊那郡満島村(今の長野県下伊那郡天龍村)の僧侶で元は武士という。旗本遠山氏の苛政に耐えかねた百姓らのため訴状を作成したことから遠山氏の拷問を受けて元和4年(1618)死亡し、これに憤った百姓一揆により居城を攻められた遠山氏は滅亡したという伝承がある。 

折立長老碑(折立長老と遠山騒動)
江戸時代初期、旗本・遠山景直の悪政に苦しむ信濃国伊那郡遠山郷(今の長野県下伊那郡・飯田市一帯)の百姓らは、幕府に直訴するための訴状の作成を浄林寺住職の「折立長老」に依頼します。ところが、密告により捕われて拷問を受けた長老が元和4年(1618...
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義民のあしあと