町井友之丞(寛政一揆顕彰碑)
津藩では郡奉行の茨木理兵衛のもとで財政改革が進められていましたが、そのひとつの均田制によって既存の農地を奪われることを恐れた伊勢国一志郡(今の三重県津市ほか)の農民たちが寛政8年の暮れに蜂起し、その波は安濃郡・奄芸郡にまで広がって、藩政史上最大級という3万人規模の「寛政の大一揆」に発展しました。その結果として茨木理兵衛は免職となり、均田制も撤回されましたが、この一揆の頭取と目された多気藤七郎・町井友之丞・森宗左衛門の3人が塔世川原で打首となり、その首は獄門に架けられました。大正時代には、これらの義民の名を刻した顕彰碑が町井友之丞の故郷に建てられています。
義民伝承の内容と背景
津藩では9代藩主・藤堂高嶷(たかさと)の時代、財政難を打開するために郡奉行・茨木理兵衛重謙(しげあき)を中心に数々の藩政改革が実行されます。
その一つに「地平し」(均田制)がありましたが、これは一志郡の貧困農村38か村を対象に、土地を戸数をもって平等に配分しなおす政策のことであり、既に田畑を有している百姓たちにとっては、大切な土地を強制的に奪われる恐れがありました。
寛政8年12月26日(太陽暦で1797年1月)、一志郡小倭郷(今の三重県津市)の百姓らがまず蜂起し、豪農の屋敷や商家などを打ちこわしながら津城下に迫り、その波は安濃郡・奄芸郡にまで広がって、藩政史上最大級という3万人規模の「寛政の大一揆」に発展しました。
この一揆は加判奉行・岡本五郎左衛門が岩田町の阿弥陀寺に百姓らを引き入れて説得し、願書を出させるなどしてようやく終息を迎え、結果として翌年には茨木理兵衛が郡奉行を免職となり、均田制についても中止されることになりました。
一方で一揆の頭取と目された谷杣(たんぞま)村の町井友之丞、川口村の森宗左衛門、八対野村の多気藤七郎の3人の庄屋は、その責任をとって寛政10年12月19日(太陽暦で1799年1月)に塔世川原で打首となり、首は獄門に架けられました。
町井友之丞が処刑直前に鼻紙に認めた辞世の句は今でも故郷の海泉寺に現存しており、これには「ありがたき君のめぐみの一太刀につみとがきへてみだ(弥陀)とあらはる」とあります。
また、森宗(惣)左衛門の供養碑、宗左衛門の墓碑と永牢になった父・彦兵衛の墓碑のあわせて3基が当時の川口村の善性寺墓地に残されており、津市指定文化財(史跡)となっています。
時は移って大正2年(1913)には「世直し大明神」といわれた寛政大一揆の犠牲者3人を讃える顕彰碑が海泉寺に建てられました。
寛政一揆顕彰碑へのアクセス
名称
- 寛政一揆顕彰碑 [参考リンク]
場所
- 三重県津市榊原町地内
(この地図の緯度・経度:34.6973, 136.3452) 備考
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「寛政一揆顕彰碑」は、町井友之丞の出身地である海泉寺脇の墓地の最上段にあり、この一揆の頭取として打首獄門になった多気藤七郎・町井友之丞・森宗左衛門の3人の名が刻されています。
「海泉寺」(34.6974,136.3454)は、近鉄大阪線の榊原温泉口駅から県道経由で4キロほど北に位置しています。
「談義穴」(34.6996,136.3427)は、海泉寺の裏手の山中深くにあります。海泉寺前の市道を南西に200メートル弱進んだところにある丁字路を曲がり、北に500メートル弱進むと「寛政の一揆談義穴150m」と書かれた看板が建っています。ここから看板にしたがって徒歩で山道を移動しますが、道幅が狭いので誤って谷に落ちないよう注意を要します。
「森宗左衛門供養塔」(34.6493,136.3482)ほかは、雲出川を背にして建つ善性寺の正面向かって左側にある境内墓地の入口近くの覆屋のなかにあり、解説板も設置されています。いくつか石碑が並ぶ中で、左側の傘付きのものが処刑日を記した供養碑、その隣が宗左衛門墓碑、さらに隣が彦兵衛墓碑です。
参考文献
- 近世義民年表
- 津市史 (1959年)
- 久居市史 (1972年)
- 藩政改革と百姓一揆―津藩の寛政期
- 『三重県史』通史編 近世1(三重県編 三重県、2017年)
[参考文献が見つからない場合には]