清兵衛地蔵(石上清兵衛と高柳村訴願)

清兵衛地蔵 義民の史跡
年貢減免と引換えに処刑された庄屋を供養する

元禄5年(1692)、駿河国志太郡高柳村(今の静岡県藤枝市)の庄屋・石上清兵衛は、数年来の不作を理由として、田中藩の代官に年貢減免を訴願しました。代官に首と引換えにと脅された清兵衛は動じることなく、元禄5年(1692)3月4日に茶屋河原で打首になったといいます。村では「清兵衛地蔵」を祀って菩提を弔い、明治時代には養源院に木像も奉納されました。

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義民伝承の内容と背景

江戸時代前期のこと、駿河国志太郡高柳村の庄屋であった石上清兵衛は、ここ数年来の不作を理由として、組頭2人を伴い、高1石につき4升の年貢減免を田中藩に訴願しました。

この石上清兵衛の先祖は甲斐武田氏の家臣で石上城主の石上兎角之助であり、寛文年間になってその一族に当たる父・石上与兵衛が高柳村に帰農して庄屋役を務めるようになったといいます。

訴願の際、代官の野田三郎左衛門から「願いの趣旨はもっともながら首と引換えにする」と脅された組頭は逃げ帰ってしまいますが、もとより決死の覚悟であった清兵衛はそれでも動じることなく、ついに茶屋河原の刑場に引き立てられて処刑されることになりました。

石上清兵衛の処刑は元禄5年(1692)3月4日(一説に元禄12年(1699)とも)のことで、当時25歳の若さであり、あわれに思った刑吏が何度も処刑をためらうのを見た村人たちが養源院の和尚を呼んで助命嘆願をしようとしたものの、時既に遅く、和尚が駆けつけたときには処刑が終わっていたという言伝えもあります。

これらが史実であることを証明する近世の古文書などは残っておらず、もっぱら地域の伝承に依拠していますが、石上清兵衛の菩提を弔うために村人たちが建立した「清兵衛地蔵」が、今も茶屋河原地蔵堂内に安置されています。

明治25年(1892)には地元有志により養源院に義農清兵衛の木像が奉納され、二百回忌の一大供養が行われるとともに、「石上院華屋清桃居士」の戒名も追号されました。

今でも清兵衛の命日に当たる毎年3月4日には、この養源院で追善供養が行われています。

参考文献

『静岡県の歴史』近世編(若林淳之 静岡新聞社、1983年)
『大井川町史』中巻(大井川町史編纂委員会編 大井川町、1991年)
『志太の人物遺産』(小嶋良之 志太情報創造ネット、2017年)
『図説藤枝市史』改訂第2版(藤枝市史編さん委員会編 静岡県藤枝市、2019年)

清兵衛地蔵へのアクセス

名称

清兵衛地蔵

場所

静岡県藤枝市高柳1丁目21番街区

備考

東名自動車道「焼津インターチェンジ」から車で15分、ローソン藤枝高柳一丁目店西50メートルの地蔵堂内に安置されている。堂内には日切地蔵尊・茶屋河原地蔵尊・香煎婆さん・清兵衛地蔵の4体がある。

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