義民のあしあと

清水半平(宝暦の義民清水半平、中沢浅之丞の墓)

江戸時代の宝暦11年(1761)、信濃国小県郡夫神村(現在の長野県小県郡青木村)の組頭・浅之丞と百姓・半平らが頭取となり、年貢減免や役人の罷免などを求めて1万3千人が上田城下に押し掛けて打ちこわしを行う「上田藩宝暦騒動」が勃発します。
結果として百姓側の要求はほぼ認められましたが、強訴自体は違法として藩による取調べがはじまり、宝暦13年(1763)3月2日に半平と浅之丞が中島河原において死罪となりました。
一揆の経緯は『上田騒動実記』や『上田縞崩格子』などの書物にまとめられ、江戸時代を通じて多くの写本がつくられていますが、戦前に埋もれていた清水半平の墓が偶然に見つかったことから慰霊祭などの顕彰がはじまり、青木村は「義民の里」として知られるようになっています。



義民伝承の内容と背景

江戸時代の宝暦11年(1761)、上田藩では郡奉行に成り上がった中村弥左衛門らに代表される、農政に精通した「地方巧者」(じかたこうしゃ)と呼ばれた新参の役人を重用して、干魃による凶作の最中に年貢徴収の方法をこれまでの定免法から検見法に改めるなど、容赦のない年貢増徴を図ります。

そこで信濃国小県郡夫神村(現在の長野県小県郡青木村大字夫神)の庄屋・西戸太郎兵衛、組頭・中沢浅之丞、「侠骨」をもって近隣に聞こえた百姓・清水半平、夫神村と同じく浦野組に属する田沢村(同村大字田沢)の庄屋・小宮山金治郎らは謀議を重ね、宝暦11年(1767)12月11日の夜、ついに蜂起します。

『上田縞崩格子』によれば、この夜に浦野組から領内の他の村々にも使いが出され、「明日上田表へ御年貢御相場違御訴訟として罷出るなり、一同にならざる邑は戻りに火をかけ焼払うへし」と大声で叫んで一揆への加勢を呼びかけ、明くる12月12日の早暁から、鎌や斧などを携えた藩内の百姓が上田城下に押しかけたといいます。

この一揆に参加した百姓の数は1万3千人あまりといい、同日の日中には上田城大手門前で18か条の要求を掲げて強訴に及びますが、郡奉行では収拾がつかず、藩主の松平忠順も江戸にいたため、代わりに家老の岡部九郎兵衛重教が呼び出されて百姓への対応に当たります。

この要求は本年貢の金納相場の適正化をはじめ、小物成や中間(ちゅうげん。武家の雑務にあたる奉公人)の徴発などのさまざまな課役の減免、横暴な役人の引き渡しなどの多岐な内容にわたっていました。

家老の岡部九郎兵衛は、江戸にみずから出向いて藩主に言上し、百姓の願いのとおりにする旨をその場で約束して書付を渡し、『上田縞崩格子』によれば、もしも認められなければ「百姓の目前にて切腹せん」とまで言い切ったため、一揆勢はそれぞれの村へと引き揚げることになります。

もっとも、途中で町方の富裕な商人や在方の庄屋などを襲って打ちこわしをしたため、騒動は数日にわたって続き、これが後世「上田藩宝暦騒動」と呼ばれる、上田藩松平家では初めてとなる全藩一揆となりました。

翌年の宝暦12年(1768)、村方代表者を集めて岡部九郎兵衛から藩の方針が申し渡され、ほぼ百姓の要求どおりに年貢減免などが認められたほか、同年5月には中村弥左衛門らの役人も閉門を申し付けられ処罰されていますが、一方で強訴そのものは「御定法」に反する行為であるとして、一揆参加者に対する藩の取調べも厳しくなります。

『上田縞崩格子』によれば、捕らえられた夫神村半平は、郡奉行・中村弥左衛門による吟味の場において、「何れの国にても地方巧者新参は百姓騒動の触頭といふものなり」と、新参役人の重用こそが一揆を引き起こす元凶だと批判したといいます。

そして宝暦13年(1763)3月2日、夫神村百姓の清水半平と組頭・中沢浅之丞が中島河原(今の長野県上田市下塩尻)において死罪となり、夫神村庄屋・西戸太郎兵衛と田沢村庄屋・小宮山金治郎は永牢、ほかにも夫神村の中沢伝治良などが手錠や追放の刑罰を受けました。

これら一揆の経緯は『上田騒動実記』や『上田縞崩格子』などの作者不詳の書物にまとめられ、江戸時代を通じて多くの写本がつくられており、子供4人を残して先立った行年39歳の浅之丞については「終に行 栖は西の空なれど 先さきかけて 道知べせん」「散る花は 昔誠の 習ひかな」、59歳で刑死した半平については「長生は 娑婆ふさげ迚 今日ははや 浮世の隙を 春のあけぼの」「いさぎよく 散るや此の世の はなふぶき」の辞世の句があったことを記しています。

なお、『上田騒動実記』は清水半平と中沢浅之丞の刑場でのやり取りを伝える中で、半平の年齢を62歳、浅之丞は38歳と記していますが、墓石に刻まれた年齢とは若干異なっています。

また、『上田騒動実記』は死罪になった清水半平と中沢浅之丞、庄屋の西戸太郎兵衛と小宮山金治郎が謀議したとしているものの、書物によっては他の村役人らの主導的な関与をうかがわせる記載があり、突発的ではなく周到に準備がなされていたことが伺えます。

『上田騒動実記』では、馬越村(今の上田市浦野)の東昌寺の住僧が遺骸をもらい受けて戒名を付け、ねんごろに葬送を執り行ったと記述してはいるものの、やはり江戸時代にはこれらの犠牲者を表立って顕彰はできなかったようで、長い間その墓は無縁墓として埋もれたままになっていました。

しかし、戦前の昭和16年(1941)、地元の青年だった清水利益氏(後に青木村義民顕彰会会長)が、処刑日に一致する命日と刑死を示す「刃」の字が入った戒名が刻まれた墓石を発見し、これが清水半平の墓として特定されました。

昭和18年(1943)には「宝暦義民180年祭」が行われて墓が再整備され、夫神村庚申堂の近くに「宝暦義民の碑」が建てられたほか、昭和50年代には一揆の犠牲者たちの墓が相次いで青木村文化財(史跡)の指定を受け、「義民の里」として知られるようになりました。

宝暦の義民清水半平、中沢浅之丞の墓へのアクセス

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名称

宝暦の義民清水半平、中沢浅之丞の墓 [参考リンク]

場所

長野県小県郡青木村大字夫神地内
(この地図の緯度・経度:36.3631, 138.1273)

備考

青木村史跡指定を受けている「宝暦の義民清水半平、中沢浅之丞の墓」は、国道143号青木交差点から県道12号線に入ってすぐの交差点をおよそ1キロほど南に進んだ山中にあります。場所がわかりにくいので、途中までは「義民そば」や「信州まるべりーオートキャンプ場」を目印にして進むのもよいといえます。
県道から墓地までのアクセス道路には「宝暦義民の墓」と書かれた看板が、右左折をする場所ごとに建っていますので、この看板を見逃さないようにします。墓地に近い付近は道路が狭く急勾配で、最後は自動車1台分の幅員しかない未舗装道になりますので注意が必要です。
一団の墓地内にまとまって存在するのではなく、百姓・清水半平の墓、組頭・中沢浅之丞の墓、庄屋・西戸太郎兵衛の墓が、標高の低い北側から標高の高い南側に向かって、この順番で広い山中に点在しているイメージです。現地にも案内看板や事績を記した石碑があります。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

中部地方 清水半平 上田藩宝暦騒動