北野孫兵衛(引地峠処刑場跡)
関ヶ原の戦い後の減封で財政が逼迫した毛利家は慶長検地で大幅な石高増加を図ったため、7つ3分(73%)という高い税率とあいまって、百姓の負担はより過酷なものとなります。そこで、周防国玖珂郡本郷村(今の山口県岩国市)庄屋・北野孫兵衛ら山代十一庄屋は、慶長13年(1608)10月に代官所に年貢減免を嘆願し、税率は4つ(40%)まで引き下げられますが、翌慶長14年(1609)に代官所から出頭を命じられ、11人全員が引地峠で即日処刑されました。
本郷川沿いで晒された北野孫兵衛の首級は、地元民が盗み出して成君寺裏に葬ったといい、今に「首塚」が残っています。また、明治時代には同じ成君寺境内に有志による「山代十一庄屋頌徳碑」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」において、徳川家康に敵対する西軍の総大将となった毛利家120万石は、戦後処理で中国地方の覇者から一転して周防・長門両国29万石まで減封され、財政の逼迫を招きます。
そこで慶長検地により石高を増やすとともに、俗に「防長三白」と呼ばれる米・塩・紙の生産を奨励して、租税収入の強化でこの難局を乗り切ろうとしました。
錦帯橋で有名な錦川の上流地域はかつて「山代郷」と呼ばれており、長州藩毛利家と他藩との国境にあたるほか、紙の原料である楮がよく採れたため、地域の中心である本郷村に代官所が置かれるとともに、新たな検地と田方7つ3分の免(73パーセント)という極端に高い年貢率を通じた収奪も苛烈を極めました。
そこで慶長13年(1608)10月、北野孫兵衛をはじめとする山代郷10か村の庄屋らが代官所に愁訴したところ、百姓の要望どおり年貢率は4つ(40パーセント)まで引き下げられることとなりました。このとき庄屋らは本郷八幡宮に集まり一味神水し、百姓は山上がり(逃散)をしたという伝えもあります。
これを「慶長山代一揆」と呼んでいますが、翌年の慶長14年(1609)になって代官所から北野孫兵衛らに出頭が命じられ、3月29日、引地峠において次の11名全員が即日で磔に処せられ、その首級は見せしめのため本郷村の物河土手(今の本郷川)に晒されたといいます。
山代十一庄屋
府谷村庄屋 西村治右衛門河山村庄屋 岡新左衛門
本郷村庄屋 北野孫兵衛
波野村庄屋 中内助右兵衛
生見村庄屋 新原神兵衛
南桑村庄屋 揚井市助
阿賀村庄屋 宗正作兵衛
大原村庄屋 宇佐川五良兵衛
宇佐村庄屋 広兼七良兵衛
宇佐郷村庄屋 山田平兵衛
波野村百姓 中内孫右衛門
以上11名の犠牲者を「山代十一庄屋」といい、うち北野孫兵衛の首は地元民が夜間に梟首台から密かに盗み出して成君寺山の赤江という場所に葬り、ここに無銘の墓石を建てたものが「首塚」として今に残っています。
また、本郷村の安養院にいた休伝という僧侶が、毎年3月29日に山代十一庄屋の追善供養を50年にわたって行い、その態度が殊勝として代官の村上平兵衛から寺院建立を認められ、寛文4年(1664)に安養院を改めて建立寺にしたともいわれ、同寺には山代十一庄屋の合同位牌(現在のものは明治5年に再製)が安置されています。
さらに、明治32年(1899)には、地元有志により成君寺住職が撰文した「山代十一庄屋頌徳碑」が同寺境内に建立され、近くは平成12年(2000)に山代義民顕彰会が発足しています。
引地峠処刑場跡へのアクセス
名称
- 引地峠処刑場跡 [参考リンク]
場所
- 山口県岩国市美和町秋掛地内
(この地図の緯度・経度:34.301313, 132.058313) 備考
岩国市指定史跡「引地峠処刑場跡」は、山口県指定史跡「中ノ川山一里塚」からかつての山代街道をさらに奥に進んだ場所にあります。
アクセス方法としては、まずは県道134号秋掛錦線から枝分かれする林道釜ヶ原線起点(34.3057, 132.0609)まで車で向かいます。この起点には「中ノ川山一里塚入口」と書かれた白い木製の標柱が建っています。
ここから先の林道は未舗装ですので、そのまま車を置いて徒歩にするか、または林道起点から400メートルほど先の「史跡 中ノ川山一里塚入口」と書かれた2番目の標柱が建っている場所付近まで車で進み、それ以降を徒歩にするか、どちらかの手段を選ぶのがよいでしょう。
2番目の標柱から徒歩で2、3分ほど山道を歩くと「中ノ川山一里塚」、その先に「引地峠の処刑場跡」、「大刀洗いの池跡」と続きます。現地には同様の白い木製標柱と岩国市教育委員会の史跡案内板が建っています。
「大刀洗いの池跡」(現在は池は枯れている)から先は倒木が多く、現在では歩行困難ですが、旧山代街道をそのまま通れるとすれば、県道134号の反対側、山口県企業局本郷川発電所付近の橋(34.3003 132.0499)まで至ることができ、この橋のたもとにも「山代街道 この上、引地峠」と書かれた白い標柱が建っています。
「山代十一庄屋頌徳碑」は、岩国市本郷町宇塚364番地の臨済宗成君寺(じょうくんじ)の境内西側にあります。頌徳碑の右手前に山代十一庄屋の氏名が書かれた案内板、左手に「首塚 200m」の看板が建っています。
成君寺へのアクセス方法ですが、まずは県道134号線により近い、山口県岩国市本郷町宇塚420番地所在の国穏寺(34.302688,132.026187)境内に駐車して、ここから林道を10分ほど歩くのがよいでしょう。
林道を自動車で登って成君寺境内に乗り入れることも可能ですが、幅員の狭い未舗装ですので、運転に自信がなければ避けたほうが無難です。
「北野孫兵衛首塚」(34.3069,132.0246)は、「山代十一庄屋頌徳碑」左手の「首塚 200m」の看板に従って進んだ先にありますが、こちらも山道を徒歩で登り下りするので5分から10分程度はかかります。現地には「首塚 本郷村庄屋・北野孫兵衛の首を葬ったところ。」と書かれた木製看板が建ち、その奥に開山上人の墓があります。
以上の場所の多くは途中の道路がgoogle地図やyahoo地図では表示されていませんので、地理院地図などをあわせて参照したほうがわかりやすいといえます。
参考文献
- 近世義民年表
- 日本歴史地名大系 第36巻 山口県の地名
- 『山代の心』(本郷村「ふるさとの歴史を知る会」編 山代義民顕彰会、2000年)
- 『本郷村史』第2巻(本郷村教育委員会編 本郷村、1996年)
- 『美川町史』(中本三十一編 美川町、1969年)
- 『編年百姓一揆史料集成』第1巻 (天正十八年~元禄二年)(青木虹二編 三一書房、1979年)
[参考文献が見つからない場合には]