義民のあしあと

細野冉兵衛(慈眼寺)

天保5年(1834)、常陸国新治郡坂村(今の茨城県かすみがうら市)において、名主が土浦藩の代官と結託して年貢米を不当徴収した疑惑が持ち上がります。そこで坂村の貝塚恒助が発頭人となり、志戸崎の慈眼寺で寄合を開き、人望の厚い東郷名主惣代・細野冉兵衛(ぜんべえ)に嘆願するとともに、その証拠探しをしていたところを代官に捕らえられてしまいます。細野冉兵衛は農民の味方をして逆に代官を捕縛したため騒ぎが大きくなり、土浦藩から永牢を申し渡されて獄中で亡くなります。貝塚恒助も行年25歳で打首となりますが、死後「宝性院行義説民居士」の名が贈られました。



義民伝承の内容と背景

天保5年(1834)、常陸国新治郡坂村(今の茨城県かすみがうら市)において、名主・長左衛門が土浦藩の出役(代官)・高野喜蔵と結託し、年貢米を不当に徴収して私腹を肥やしていた疑惑が持ち上がります。

そこで坂村の貝塚恒助が発頭人となり、志戸崎の慈眼寺で何度も寄合を開いて対応を協議するとともに、豪放な性格で人望も厚かった隣村深谷村の土浦藩東郷名主惣代・細野冉兵衛(ぜんべえ)に嘆願しますが、まずは証拠を集めて出訴するようにと諭されます。

この細野冉兵衛は、私財を投じて荒れ地を開墾し、藩公・土屋英直から「幾とせも こころをこめて ふかやなる 松もろともに 民もさかへぬ」という和歌を贈られたり、文政5年(1822)に土浦藩領の出羽国天童で一揆が起きた際には、藩から奥州鎮撫使として派遣されて一揆を終息させ、苗字帯刀を許されたほどの功績の持ち主でした。

貝塚恒助は農民への年貢の割当を記した小割付帳を調べていたところ、代官に捕らえられてしまい、連絡を受けた細野冉兵衛は、農民の味方に立って逆に代官を捕縛したため騒ぎが大きくなります。

これが「坂村大騒動」「志戸崎騒動」ともいわれる一揆の顛末ですが、土浦藩では細野冉兵衛のこれまでの功績に免じて「耄碌」で済まそうとしたものの、冉兵衛が強固に否定するためついに永牢が申し渡されることとなり、天保6年(1835)正月に72歳で牢死します。

貝塚恒助も天保5年12月(1835年1月)25日、行年25歳で打首となり、ほかに8名が追放、20名が手鎖などの処分を受けていますが、ことに貝塚恒助については死後に「義民」であることを示す「宝性院行義説民居士」という名が贈られ、菩提寺の長福寺に葬られました。

いっぽうで土浦藩出役は追放、坂村名主は御役仰免となり、農民側の犠牲を伴いながらもこの騒動は幕引きとなりました。

慈眼寺へのアクセス

[大きな地図で見る]

文中に緯度・経度の記載がある場合は、値(例えば「35.689634, 139.692101」)をコピーして検索すれば、その場所の地図(Googleマップ)が表示されます。

名称

慈眼寺 [参考リンク]

場所

茨城県かすみがうら市志戸崎788
(この地図の緯度・経度:36.069525, 140.370142)

備考

「慈眼寺」は、淡水魚水族館のかすみがうら市水族館前の道路を西方向に600メートルほど道なりに進んだ集落内にあります。無住の寺院で、境内には宝篋印塔が多く建てられ、入口が空き地状になっています。付近の道路沿いに「大黒屋商店」の店舗や「貝塚忠三郎商店」の看板がありますので、強いて言えばこれが目印になります。


「細野冉兵衛の墓」(36.0990,140.2920)は、かすみがうら市深谷地内にあり、国道354号にごく近いものの、脇道に入るのでわかりにくくなっています。有限会社塚本建設(かすみがうら市深谷762-1)が目印で、道路挟んで反対側の墓地内、中央の新しい墓碑の右側にある、竿石に「晴蓮院有徳賢心居士」、上台に「野細」(右横書き風)と刻まれているのがそれです。以前は林に覆われていましたが、現在は樹木が切り払われて整然としています。現在は国道356号で分断されていますが、国道のすぐ北側が細野冉兵衛の出身地の御幣集落で、ここから不動尊を経て南に向かう旧道沿いにあたります。


「貝塚恒助の墓」(36.10956, 140.34410)は、かすみがうら市下軽部289所在「長福寺」境内に隣接する霊園内の最奥部に位置し、竿石に「宝性院行義説民居士」、上台に「氏塚貝」とあるのがそれです。こちらもわかりにくいですが、国道356号方面から訪れると入口に「茨城県指定天然記念物 出島の椎(長福寺)」という看板が立っています。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

関東地方 細野冉兵衛 志戸崎騒動