野木久右衛門(萩原神社)
天明3年(1783)、天候不順による大飢饉に見舞われた駿河国駿東郡萩原村(今の静岡県御殿場市)をはじめとする一帯の村々では、年貢減免を求めて藩庁のある小田原に押しかけようとし、箱根関所を越える直前で説得に応じて引き返しています。
これが「駿河御厨一揆」の顛末ですが、小田原藩では「用捨引」としてわずかな減免を認める一方で、責任者の追及を怠らず、萩原村の鋳かけ屋・久右衛門を死罪に、新橋村の前名主・常右衛門を永牢に、その他9人を所払いとしています。
萩原村久右衛門は天明4年(1784)に処刑されていますが、早くも天明8年(1788)にはその顕彰のため村の鎮守の子之神社に祀られています。
明治時代に入ると久右衛門・常右衛門・浅右衛門・又右衛門の4名(4柱)とともに、「四相権現」として萩原神社に合祀されました。
主要項目
義民伝承の内容と背景
天明3年(1783)、長雨や早霜などの天候不順による大飢饉に見舞われた駿河国駿東郡萩原村(今の静岡県御殿場市)をはじめとする一帯の28か村では、蓑笠を身に着け鍬・鎌を手にした500名あまりの農民たちが集まり、11月17日、年貢減免を求めて藩庁のある小田原に押しかけようとします。
このとき、箱根関所を越える直前の箱根宿小田原町名主・佐五右衛門や、藩の地方組小奉行らの説得によって、一揆勢は実際には小田原城下に立ち入ることなく引き返しており、鉄砲で武装して待ち構えていた箱根関所からも佐五右衛門の働きは「出精」として褒め称えられています。
この年の12月に入ると、藩から正式に年貢の割付状が交付されますが、「用捨引」としてわずかな減免を認める一方で、翌年の天明4年(1784)からは責任者の追及がはじまり、同年8月、萩原村の鋳かけ屋・久右衛門に死罪、新橋村の前名主・常右衛門に永牢、その他9人に所払いを申し付けています。
萩原村久右衛門は天明4年(1784)8月に処刑され、永牢の新橋村常右衛門も翌年に牢死していますが、久右衛門は早くも天明8年(1788)には村の鎮守の子之神社に神として祀られ、寛政3年(1791)には常右衛門が開いていた寺子屋の弟子たちにより常右衛門を供養する筆子塚も建てられました。
明治時代に入ると、萩原村久右衛門・常右衛門・浅右衛門・又右衛門の4名(4柱)は「四相権現」として萩原神社に合祀され、現在もこの神社は市民会館の脇にあります。
萩原神社へのアクセス
名称
- 萩原神社 [参考リンク]
場所
- 静岡県御殿場市萩原163
(この地図の緯度・経度:35.309221, 138.931729) 備考
「萩原神社」は御殿場市民会館の南隣にあり、外観からもすぐにわかります。この神社の主祭神は木花開耶姫命と大己貴命ですので、四相権現はいわゆる相殿神にあたります。拝殿前に神社の由緒書があり、ここにも御厨一揆について書かれています。
「野木久右衛門の墓」(35.3108,138.9335)は、国道138号御殿場バイパスの市民会館入口交差点から北側の側道に入ってすぐの場所にある、萩原区小原南組防災倉庫の脇の、旧万法寺跡の一角にあります。敷地内に林立する無縫塔は歴代住職の墓です。
「萩原四相権現 野木久右衛門屋敷跡」(35.3111,138.9336)は、「野木久右衛門の墓」裏の道路を60メートルほど進んだ先にあり、現在はアパートの敷地となっています。アパート駐車場の奥に小さな石碑が建っています。
参考文献
- 御殿場市史〈第8巻〉通史編 (1981年)
- 御殿場市史〈第2巻〉近世史料編 (1975年)
- 江戸時代の小田原 (1980年) (小田原市立図書館叢書〈2〉)
- 『静岡県史』通史編4 (近世2)(静岡県 1997年)
[参考文献が見つからない場合には]