松田勘右衛門(斬刑地蔵)
鳥取藩では凶作にもかかわらず定免制による厳しい年貢の取り立てを行ったため、元文4年(1739)、因幡・伯耆両国の百姓5万人が参加したという全藩一揆「元文一揆」が勃発します。
一揆勢は実際に年貢の取り立てを担当していた大庄屋らの屋敷を打ち壊して鳥取城下に迫りました。
鳥取藩では年貢軽減などを求める百姓らの願書を受理するとともに、郡代の米村広当を罷免して一揆の沈静化を図ります。
その後は一揆の指導者として因幡国八東郡東村(今の鳥取県八頭町)の松田勘右衛門らが捕らえられ、翌年の元文5年(1740)11月21日に42歳で処刑されています。
当時の斬刑場付近には「斬刑地蔵」(もしくは「首切り地蔵」「見殺し地蔵」)と呼ばれる地蔵尊とともに、「元文五申」の銘を持つ題目塔も建てられており、密かに供養がなされたものと考えられます。
ほかにも松田勘右衛門が私財を投じて八東川に「勘右衛門土手」といわれる堤防を築いたことを顕彰するため、八東川沿いの現地には「東村勘右衛門碑」も建てられています。
主要項目
義民伝承の内容と背景
鳥取藩では元禄のころから豊凶にかかわらず年貢を一定にし、大庄屋に徴収を請け負わせる「請免制」(他藩でいう定免法)を採用していました。
元文3年(1738)には凶作により飢饉となりますが、郡代の米村所平(米村広当:ひろまさ、米村所右衛門とも)は何ら救済措置を講ぜず、定免法による厳しい年貢の取り立てを続けました。
そこで元文4年(1739)2月、因幡・伯耆両国の百姓5万人が決起する全藩一揆「元文一揆」(「勘右衛門騒動」「勘右衛門一揆」「鳥取藩元文一揆」とも)が勃発し、実際に年貢の取り立てを担当していた各郡の大庄屋の屋敷を打ち壊しながら鳥取城下に迫りました。
事態を重く見た鳥取藩では、千代川の古海河原で年貢軽減などを求める百姓らの願書を受理するとともに、郡代の米村所平を御役御免・閉門として後任に松井番右衛門を任命、目付の吉田長三郎らが千代川の渡し場まで出向いて慰撫するなどして、一揆の沈静化を図ります。
その後は一揆の指導者として因幡国八東郡東村(今の鳥取県八頭町)百姓の松田勘右衛門(東村勘右衛門)らが捕らえられ、翌年の元文5年(1740)11月21日、田の島にあった鳥取藩の斬刑場において、弟の武源次らとともに斬首の上、在所に梟首されており、時に42歳であったといいます。
松田勘右衛門はこれより先に鳥取藩に意見書を提出するとともに、八東川の氾濫対策として私財をなげうって石積みの堤防を築き(「勘右衛門土手」)、その土手にニラを植えて飢饉に備えるなどしており、鳥取藩への出仕をめぐる役人との関わりも多かったといいます。
鳥取藩士・岡島正義が著した『因府年表』によれば、この一揆では11月21日に松田勘右衛門を含む6名(同日付けで7名が処刑されているが、うち婦人1名は他人の娘を騙して大阪の遊女に売った罪で別件)が処刑されたほか、8月19日にも伯耆国の7人、同26日に因幡国・伯耆国の5人が処刑されています。
これら「百姓騒動の張本」とされて処刑された人たちのほかにも、多数の百姓が追放などの処分を受け、藩士の中にも農民に同情的な立場をとった上野小平太(上野忠親)、一揆勢が登用してほしい人物として幟に名前を掲げた福住弥一兵衛のように、一揆の責任を問われて閉門を申し付けられた者もありました。
当時の鳥取藩斬刑場跡付近には「首切り地蔵」と呼ばれる石地蔵が建っており、これは一揆前の宝永2年(1705)にはすでに建立されていたと見られていますが、いつしか一揆に付会して元文年間に建立されたと伝えられるようになっています。
ほかにも地蔵の左手には「南無妙法蓮華経」の髭題目が書かれた「元文五申八月一日」の銘がある題目塔も建てられていることから、一揆の犠牲者を悼んで密かに供養が行われたものと考えられており、さらには『因伯民乱太平記』のような書物を通じて、一揆の顛末は後世まで語り継がれることになりました。
斬刑地蔵へのアクセス
名称
- 斬刑地蔵 [参考リンク]
場所
- 鳥取県鳥取市西品治地内
(この地図の緯度・経度:35.5087, 134.2164) 備考
-
「斬刑地蔵」は、鳥取市内の新茶屋通りの外れ、千代川に沿って走る鳥取環状道路の脇にあります。玄忠寺の「荒木又右衛門遺品館」前の道路を北西方向に500メートルほど進んだ場所で、地蔵堂が設けられています。題目塔は地蔵堂の左側に建っています。
「東村勘右衛門碑」は、八頭郡八頭町東地内(35.3610135,134.3344893)にあり、ちょうど若桜鉄道「徳丸駅」の南側350メートルほど、県道6号線沿いの場所で、周囲は整備されて案内板が建っています。
参考文献
[参考文献が見つからない場合には]