義民のあしあと

武左衛門(武左衛門大いちょう)

伊予宇和島藩の支藩の吉田藩では紙の専売制を強化しますが、これによって製紙業にたずさわる農民の収入は激減し、寛政5年(1793)、伊予国宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)百姓・武左衛門(本名は嘉平)を頭取とした大一揆(「武左衛門一揆」または「吉田騒動」)が勃発します。
越境して宇和島城下の八幡河原に集結した領民は9600人あまりともいわれ、専売制で利益を得た法華津屋の打毀しを企てたほか、支藩である吉田藩を飛び越えて本藩の宇和島藩に訴えようとしました。
こうしたなかで吉田藩家老の安藤継明(安藤儀太夫)が八幡河原にみずから出向き、百姓との交渉に失敗するとその場で切腹、これをきっかけに百姓側から11か条の要求が出されて一揆は沈静化します。
吉田藩では要求をすべで認めた上、一揆の責任は問わないことを約束しますが、後に約束を破って武左衛門を捕らえ、寛政7年(1795)に斬首しています。
江戸時代には刑死した武左衛門の供養が禁止されますが、武左衛門の遺体を埋葬した瑞林寺跡には「武左衛門大いちょう」が残るほか、百姓の側についた安藤儀太夫についても別に「安藤継明廟所」などが営まれています。



義民伝承の内容と背景

宇和島藩の支藩で伊予国宇和郡吉田(今の愛媛県宇和島市)に陣屋を置く吉田藩では、紙方役所を設置し、御用商人の法華津屋(三引高月家。愛媛県宇和島市吉田町鶴間1503番地「吉田ふれあい国安の郷」に幕末の建物が移築復元されている。)に専売権を与えて藩財政の立て直しをしようとします。

この地域では泉貨紙が特産でしたが、一方で高利貸しも営む法花津屋に安く買い叩かれたため、原料である楮(こうぞ)栽培や紙漉きにたずさっていた農民の収入は激減し、領内に不穏な空気が漂いはじめます。

郡奉行所からは中見役・鈴木作之進らが出向いて百姓らを宥め、年貢減免や専売制の改善など17か条からなる願書を出させて家老に取次ぎますが、16歳の若い藩主・伊達村芳に代わって藩政を取り仕切っていた家老のなかでも、百姓側に立つ安藤儀太夫(安藤継明)と徹底弾圧を主張する郷六恵左衛門の意見が対立し、評議の結果、まったく百姓の要求は受け入れられず「万事従前の通り」と決められてしまいます。

これを受けて、寛政5年(1793)2月9日、藩内でも「山奥筋」と呼ばれていた8か村の百姓が戸祇御前山において蜂起、法螺貝や鉄砲で気勢を上げたといい、彼らは呪力がある女性の髪の毛や神社の御札を編み込んだ大縄(登山用具のカラビナのように複数をつなげて長く延ばして使う)を携帯し、法花津屋の建物を引き倒すことを目的として吉田城下に迫りました。

その際、山奥筋の一揆勢の頭取となった上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)の武左衛門には、ちょんがり(浄瑠璃語り)に変装して3年間にわたり周辺の村々を回り、24人の同志を得て一揆を組織したという伝承も残されています。

途中で一揆勢を待ち構えて百姓数名を逮捕した吉田藩の代官・横田茂右衛門はその数に押されて逃亡、近永村(鬼北町)では宗家にあたる宇和島藩の代官・友岡栄治の説得に応じて願書を出して行き先を変更し、宇和島藩領の八幡河原に集結したころには、浦方まで含めて全藩83か村、9600人規模に達していたといいます。

こうした混乱のなかで、2月14日、吉田藩家老の安藤継明(安藤儀太夫)が八幡河原にみずから出向き、百姓との交渉に臨むものの失敗し、願い出の筋を願書にしたためて提出し帰村するよう促して、若党の千右衛門に介錯を頼むと一揆勢の面前で切腹する大事件が起こります。

これをきっかけとして百姓側から11か条の要求が出され、吉田藩ではすべて受理して一揆の責任は問わないことを約束したため、2月16日になって百姓は八幡河原から退散し、後に「吉田騒動」「武左衛門一揆」などと呼ばれる全藩一揆はようやく沈静化します。

2月26日には宇和島藩役人の立ち会いのもとで吉田藩から正式に通達が出され、これは紙方役所の廃止や減税などを内容とするもので、百姓の要求をほぼ認めるかたちとなりました。

百姓の全面勝利で体面を失った吉田藩では、その後も密かに一揆の頭取を詮索していたところ、寛政6年(1794)になって、堤防修築工事の人夫を酒に酔わせて頭取の名前を聞き出すことに成功したため、郷六惠左衛門の提案により主だった者が捕らえられ、寛政7年(1795)3月23日に武左衛門は斬首の上獄門に処せられ、他の者は永牢(安藤継明の十七回忌に解放)となっています。

武左衛門は下大野村と清水村(ともに今の鬼北町)の境界にある躑躅峠(筒井坂)で斬首されたとも、針ヶ谷の刑場(今の宇和島市吉田町立間尻地内)で斬首されたともいわれ、地元には武左衛門の首を晒したという梨の大木「武左衛門の首立て木」の伝説などもみられます。

武左衛門は瑞林寺(現在は廃寺)に埋葬されるものの、役人が墓石を粉砕の上瑞林寺近くの梁井原の淵に投げ捨てさせるなどして供養を禁じたため、その跡地には武左衛門の名前を冠した「武左衛門大いちょう」が残ったほか、「萬霊塔」を建てて施餓鬼供養をしたり、盆踊りの口説きに織り込むなどして密かに語り継がれてきました。

明治以降は日吉村(今の鬼北町の一部)初代村長で自由民権運動に身を投じた井谷正命らを中心に武左衛門の顕彰が公に行われるようになり、昭和2年(1927)には「済世救民武左衛門翁及同志者碑」が建立されました。

一揆に関連した日付などは異同が多いものの、現在では吉田藩中見役の鈴木作之進が密かに書き遺した『庫外禁止録』、屏風の下張りに使われていた当時の郡奉行の反故文書「屏風秘録」などの発見により史実がある程度傍証されたこともあり、町営の「武左衛門一揆記念館」も開館しています。

また、百姓に詫び言をして切腹した安藤儀太夫についても、江戸幕末の嘉永7年(1854)に埋葬地の海蔵寺内に「安藤継明廟所」が営まれ、明治6年(1873)には屋敷跡に「継明神社」、のち改称して「安藤神社」が建立されています。

武左衛門大いちょうへのアクセス

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名称

武左衛門大いちょう [参考リンク]

場所

愛媛県北宇和郡鬼北町上大野地内
(この地図の緯度・経度:33.3218, 132.7964)

備考

「武左衛門大いちょう」は、「道の駅日吉夢産地」から南に1キロほどの瑞林寺跡にあり、その巨大さから広見川の対岸を走る国道320号からも紅葉の様子が眺望できます。公道沿いの入口には「武左衛門一揆の史跡 瑞林寺跡」という看板があります。
この「武左衛門大いちょう」の手前には「武左衛門之墓」とある墓碑が新たに築かれ、後ろには一揆の際に捕縛され後に釈放された勇之進が文化5年(1808)に寄進した「手洗石」が残されています。


「武左衛門一揆記念館」([地図])は、鬼北町大字下鍵山427番地にある、「大野作太郎の地質記念館」、「明星草庵」、「鬼北町歴史民俗資料館」からなる複合施設で、館内には武左衛門一揆の映像や資料が展示されています。
また、記念館のある「明星ヶ丘」には、他にも戦前に義民顕彰のため建立された「済世救民武左衛門翁及同志者碑」と平成10年新設の「武左衛門堂」があります。


「萬霊塔」([地図])は、「武左衛門大いちょう」から直線距離で北東350メートル、広見川を渡った先の愛媛県道285号節安下鍵山線の沿道に祀られています。


「武左衛門住居跡」([地図])は、「武左衛門大いちょう」最寄りの公道をそのまま南へ200メートルほど進んだ場所にあり、擁壁上に「武左衛門一揆の史跡」の看板が出ています。


「梁井原」([地図])は、「武左衛門大いちょう」から南へ600メートルほど進んだ、広見川に架かる橋の付近で、「武左衛門一揆の史跡」の看板が掲げられています。


「安藤神社」([地図])は、宇和島市吉田町東小路131番地に所在し、かつての安藤継明の屋敷跡に造営されたものです。前面道路はインターロッキング舗装で、社務所脇に武左衛門一揆の経緯が書かれた解説板があります。


「安藤継明廟所」([地図])は、宇和島市吉田町立間尻甲312番地の海蔵寺境内、本堂右手の小路を進んだ奥の墓地にあり、立派な覆堂と案内板があるのでそれとわかります。


「吉田藩陣屋跡」([地図])は、宇和島市吉田町立間尻甲1802番地付近にあたり、現在は模擬御殿が建てられ、簡野道明記念吉田町図書館として活用されています。


「安藤継明忠死之地碑」([地図])は、安藤継明が切腹した八幡河原を示す石碑で、伊吹八幡神社近くの須賀川沿いにあります。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

四国地方 上大野村武左衛門 武左衛門一揆