忍足佐内殉難の地碑(忍足佐内と西領騒動)

忍足佐内殉難の地 義民の史跡
役人の不正を直訴した義民の最期の地

明和7年(1770)、安房国平郡金尾谷村(今の千葉県南房総市)名主の忍足佐内らは、年貢減免や腐敗役人の罷免を求めて勝山藩主・酒井忠隣の江戸屋敷に門訴し、打首となりました。その後、親族が幕府老中に駕籠訴して、ようやく奉行らの追放が実現したことから、明治時代に「義民忍足佐内殉難の碑」が建てられました。

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義民伝承の内容と背景

明和の頃、3年続きで干魃が続いた安房勝山藩領では、名主らが勝山陣屋に年貢減免を嘆願しますが、御国奉行・稲葉重佐衛門と代官・藤田嘉内はこれに応じず、もともと江戸の無頼の徒から領主の酒井大和守忠隣に取り立てられたという稲葉重左衛門は、領内を巡検して暗に賄賂まで要求しています。

安房国平郡深名村(今の南房総市)では賄賂を出して年貢減免が認められたものの、賄賂を断った小原村(今の館山市)・白板村(今の南房総市)・金尾谷村は稲葉らに憎まれて年貢減免が認められず、ついに明和7年(1770)、たまりかねた3村の百姓総代18人が、領主の酒井大和守の江戸屋敷で門訴を行おうと江戸に向けて出発しました。

このとき途中で追い付いた金尾谷村名主・忍足佐内、白坂村組頭・五左衛門、小原村名主・平兵衛の3人は、彼らの軽挙妄動を諌めるとともに、村役人として願意を取り次いだ上で江戸に向かい、年貢減免を求める訴状を江戸屋敷詰めの役人に提出しています。

これが「勝山藩西領騒動」の顛末ですが、このとき忍足左内は単独で稲葉・藤田の罷免までも求める訴状を提出しています。

あいにく領主の酒井大和守は大坂城番で不在だったことから、この一件は容易に稲葉重佐衛門らの知るところとなり、翌明和8年(1771)から門訴についての厳しい取調べが始まりました。

稲葉重左衛門は帰村した忍足佐内を捕らえて大黒山にあった勝山陣屋の石牢に入れ、明和8年(1771)11月29日、藩主の命と偽って、闕所(財産没収)・四方引き回しの上、常光寺の助命嘆願を無視し、家族にも知らせぬままに白塚川原で打首にしました。

その後も妻そよが夫の無実を晴らすために江戸に出て、老中・松平周防守に駕籠訴を行うものの聞き届けられず、かえって稲葉によって毒殺されたといいます。

さらに安永2年(1773)には80歳になる盲目の母みつが孫娘とともに老中・松平右京大夫輝高への駕籠訴に及び、ようやく幕府から酒井候に対して藩政改革が命じられ、稲葉・藤田両名の追放と忍足家の復興が実現しました。

忍足佐内が44歳で処刑された川原には供養のための石地蔵が祀られるとともに、明治時代に「義民忍足佐内殉難の碑」が建てられ、今では南房総市指定史跡となっています。

参考文献

『富浦町史』(富浦町史編さん委員会 富浦町教育委員会、1988年)
『富浦の文化』第2集 義民忍足佐内特集号(富浦町郷土文化研究会 富浦町郷土文化研究会、1977年)
『改訂房総叢書』別巻 房総通史(改訂房総叢書刊行会 改訂房総叢書刊行会、1959年)
『史蹟名勝天然紀念物調査』第6輯(千葉県編 千葉県、1929年)

忍足佐内殉難の地へのアクセス

名称

忍足佐内殉難の地

場所

千葉県南房総市富浦町福澤字白塚39-1

備考

富津館山道路「富津インターチェンジ」から車で2分。国道127号「福沢」交差点から千葉県道185号犬掛館山線を200メートル南下すると、福沢川に架かる白塚橋のたもとにある。

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