蔵川村吉右衛門・新之丞(飲まず井戸)
江戸時代の明和年間、大洲藩領の喜多郡蔵川村(今の愛媛県大洲市)では凶作が続いたものの、大洲藩では嘆願に耳を貸さなかったため、宇和島藩領への百姓の逃散を招きます。
大洲藩では逃散の首謀者を突き止めようとするものの見つからなかったため、庄屋や組頭らを処罰しようとしますが、これを見かねた平百姓の吉右衛門・新之丞の2人が首謀者として名乗り出て、明和7年(1770)10月19日に処刑され、その首は荒間地峠に10日にわたって晒されたといいます。
村では身代わりとなった2人の菩提を弔うため、命日に一升念仏を行うとともに、村外れに石仏を建てたということです。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の明和年間(1764~72)、大洲藩領の喜多郡蔵川村(今の愛媛県大洲市)では凶作が続き、年貢減免を要求して百姓が嘆願するものの、大須藩庁はこれに耳を貸さず、何の策も講じませんでした。
このため明和7年(1770)3月、蔵川村の百姓160人が宇和島藩領の宇和郡野村(今の愛媛県西予市)へ大挙して逃散し、宇和島藩が百姓を説得して帰村させるという事態になります。
大洲藩では逃散の主謀者を突き止めようとするものの見つからなかったため、庄屋や組頭ら多数の百姓を牢につないで処罰しようとしますが、これを見かねた平百姓の吉右衛門・新之丞の2人が首謀者として藩庁に名乗り出ます。
大洲藩ではこれまでに捕縛していた百姓を釈放するかわりに、吉右衛門・新之丞の両名を明和7年(1770)10月19日、在所において斬首し、その首を大洲街道沿いの荒間地峠に10日にわたって晒して見せしめにしたといいます。
梟首された10日の間、新之丞の妻は日暮れを待って30町(3.2キロメートル)も離れた獄門台まで歩いて行き、亡き夫の首を密かに取り返して夜ごとに抱いて寝て、また夜が明ける前に首を返しに行ったという話も伝わっています。
また、吉右衛門と新之丞を処刑したときに刀についた血糊を洗ったという井戸が荒間地峠の近くに「飲まず井戸」として残っています。
その後、村では多数の百姓の身代わりとなった2人の菩提を弔うため、命日に1升の米を一粒ずつ取り出してそのたびに南無阿弥陀仏と唱える「一升念仏」を行うとともに、村の東西の外れに「吉右衛門 新之丞 村中寄進」などとその名を彫った石仏を建てたということです。
飲まず井戸へのアクセス
名称
- 飲まず井戸 [参考リンク]
場所
- 愛媛県大洲市蔵川地内
(この地図の緯度・経度:33.4558, 132.5824) 備考
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「飲まずの井戸」は、大洲南部広域農道の荒間地隧道(トンネル)の蔵川側の出口から、農道をそのまま東に350メートルほど進んだ付近にあります。ここだけ路肩が広くなっており、隣接する林の中に緑の少年隊と蔵川地域づくり委員会が建てた「蔵川の史跡」の解説板が建てられています。
「荒間地峠」([地図])は、「飲まず井戸」の西800メートルほどの山中で、広域農道の荒間地隧道(トンネル)の上にあたります。「飲まず井戸」からも細い山道が延びており、現地には六地蔵が祀られていますが、季節によっては啓開されていないおそれがあります。
「義民の碑」([地図])は、旧蔵川小学校体育館の角にあたる、愛媛県道44号大洲野村線と長谷農道との交差点付近に建てられており、裏に吉右衛門・新之丞の法名が刻まれています。
「正願寺」([地図])は、「義民の碑」から直線距離で北西100メートルほどの高台に位置しています。ただし、高台のため実際にはカーブの多い坂道を400メートルほど歩くことになります。
参考文献
- 『江戸時代のさまざま』三田村鳶魚 博文館、1929年)
- 『大洲市碑録』先学者墓碑紀念碑 第一集(非売品 大洲市教育委員会編 大洲市役所、1981年)
- 『愛媛県史』近世上(愛媛県史編さん委員会 愛媛県、1986年)
- 『愛媛県史』近世下(愛媛県史編さん委員会 愛媛県、1987年)
- 『ふるさとの民俗』(井之口章次・鎌田久子・亀山慶一・竹田旦 朝日新聞社、1986年)
[参考文献が見つからない場合には]