三義民の碑(村上平兵衛と西条三万石騒動)

三義民の碑 義民の史跡
西条藩の年貢増徴に抗った三義民の顕彰碑

宝暦3年(1753)、伊予国(今の愛媛県)西条藩では年貢を引き上げて財政難を打開しようとしたところ、これに反対する領内百姓らが加茂川原に集まり、藩庁に強訴を行いました。これを「西条三万石騒動」といいますが、西条藩は一揆を解散させた後、頭取として村上平兵衛・高橋孫兵衛・高橋弥市左衛門の3人を死罪としました。その後百姓の負担は減らされたため、人々は彼らの位牌や墓碑をつくって供養を行い、明治維新後には「三義民」として公にも顕彰されるようになりました。

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義民伝承の内容と背景

宝暦3年(1753)、藩主の松平家が江戸定府で出費が嵩んだ伊予国西条藩では、松平頼淳(後の紀州藩9代藩主・徳川治貞)の5代藩主襲封を契機として、この年豊作だったことを幸いに、検見によって把握した作柄をもとに年貢の増徴を図り、財政難を打開しようとしました。

村によって違いはあるものの、年貢率(免)は従来の三ツ五分(35%)から領内平均四ツ五分(45%)と一気に高率となったため、同年12月10日、新居郡50か村中16か村の百姓が加茂川原に集まり、西条藩庁に強訴を行いました。

これを「西条三万石騒動」といいますが、一揆の頭取となったのは郷村又野の村上平兵衛、宇高村の高橋孫兵衛と高橋弥市左衛門の3人(いずれも今の新居浜市)であり、うち弥市左衛門が訴状をしたためています。

西条藩では役人を派遣して一揆を解散させた後、年貢率が毎年一定の定免法を採用することなど、百姓側の要求に沿う決定を下しました。

その一方で、一揆の頭取となった村上平兵衛ら3人は西条藩に捕らえられて牢につながれ、寺院や庄屋からの命乞いの嘆願もむなしく、翌年の宝暦4年(1754)11月21日、梛木の刑場において死罪となり、その首は加茂川堤に晒されました。

村人たちは平兵衛らに感謝し、3人の位牌や墓碑を造って供養を行いました。また、藩主も3人を憐れみ、祈願所である伊曽乃神社の境内に又野神社(鎮守神社)を建てて祀ったといいます。

明治維新後には「三義民」として公にも顕彰されるようになり、昭和7年(1932)には地元出身の衆議院議員・小野寅吉の題字による「三義民之碑」が宇高観音堂に建立されました。この碑のすぐ南側には「三義民」の一人である高橋弥市左衛門の墓もあります。

参考文献

『日本農民史料聚粋』第4巻(小野武夫編 巌松堂書店、1941年)
『新居浜市史』(新居浜市史編纂委員会編 新居浜市、1962年)
『愛媛県史』近世下(愛媛県史編さん委員会 1987年)
『西条史談』第9・10合併号(西条郷土史研究会 1986年)

三義民の碑へのアクセス

名称

三義民の碑

場所

愛媛県新居浜市宇高町二丁目6番75号

備考

境内南側の道路沿い、住宅街の中に「宇高観音堂 すぐそこ 宇高自治会」の入口看板があり、参道を奥に進むと観音堂と墓地がある。

関連する他の史跡

❶高橋孫兵衛の墓
❷三霊様
❸村上平兵衛の墓・平兵衛神社
❹三義民社
❺梛木刑場跡
❻西条藩陣屋跡
❼鎮守神社

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]