栂野彦八顕彰碑(栂野彦八の義民伝承)

栂野彦八顕彰碑 義民の史跡
奉行宅で切腹し行商を守った町年寄の顕彰碑

文化3年(1806)、越中国婦負郡四方町(今の富山県富山市)の町年寄・栂野彦八は、漁民による行商を禁じた郡奉行を諫めるために切腹し、奉行は罷免されたといいます。彦八の没後、その石像が造られましたが、明治時代に石像を移して「都賀比古神社」が創建され、さらに「四方神社」に合祀されました。境内には彦八の功績を讃える「栂野彦八顕彰碑」が建てられています。

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義民伝承の内容と背景

寛政年間の不漁が続いた時期、富山藩では漁民たちが振売により行商をすることを禁じ、富山の魚市場に漁獲物を集めて増収を図ろうとしました。

漁民たちの嘆願により、当初はこの禁制があっても振売が黙認されていましたが、郡奉行が湯原宗兵衛に交代して以降、一転して取締りが厳しくなり、禁制を犯す者があれば容赦なく天秤棒を取り上げて牢につなぐ取扱いとなりました。

これによって生計の途がなくなった越中国婦負郡四方町の漁民らは反発し、300人ほどが城下に押しかけて一揆寸前の事態となりますが、四方町の町年寄であった栂野彦八が漁民たちをなだめ、単身で郡奉行の屋敷に乗り込み嘆願を行いました。

しかし嘆願が受け入れられなかったことから、文化3年(1806)12月19日、45歳の栂野彦八は郡奉行の屋敷内で切腹して果て、このことが富山藩主・前田利幹(としつよ)に伝わると、郡奉行は閉門となり、行商の禁制も解かれることになりました。

町民らは栂野彦八を義民と讃えて石像を造り、街道筋に安置して富山城下への行商の行き帰りに伏し拝んだといいますが、明治28年(1895)に石像を移して彦八を祀る「都賀比古神社」が創建されました。

この神社は明治40年(1907)に彦八の子孫が宮司を務める四方神社に合祀され、同44年(1911)には四方町魚市場の関係者が発起人となって境内に「栂野彦八顕彰碑」が建てられるなどしています。

現在でも毎年8月18日は四方神社の「栂彦祭」の日となっており、平成18年(2006)には「栂野彦八翁二百年祭」も執り行われました。

参考文献

『北国義民栂野彦八翁仁徳記』(国井俊彰 国井俊彰、1912年)
『四方郷土史話』(布目久三 布目久三、1981年)
『四方町を救った町年寄栂野彦八翁』(栂野彦八翁二百年祭記念誌編纂委員会編 栂野彦八翁二百年祭記念誌編纂委員会、2006年)

栂野彦八顕彰碑へのアクセス

名称

栂野彦八顕彰碑

場所

富山県富山市四方一番町1979番地

備考

北陸自動車道「富山西インターチェンジ」から車で20分。四方神社の境内最奥、本殿右手の玉垣内にある。

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