義民のあしあと

滑甚兵衛(置塩神社)

江戸時代の姫路藩では大名が頻繁に入れ替わり、その都度転封の費用を捻出するための重税が掛けられていました。
寛延元年(1748)にも台風による凶作のさなかに厳しい年貢の取り立てが行われたため、翌2年にかけて一揆・打ち壊しが頻発します。
この一揆を主導したのが飾西郡古知之庄村滑(なめら)の甚兵衛で、最終的には領内1万人あまりの農民が蜂起し、姫路藩では足りず大坂町奉行からも出張してようやく鎮圧する騒ぎとなります。
後に滑甚兵衛らは捕らえられて磔に処せられ、他にも多くの農民が死罪、遠島、追放となりました。
安永年間には彼らを供養するための経塚が造られ、後には置塩神社に祀られました。



義民伝承の内容と背景

江戸時代の姫路藩は初代藩主の池田輝政と彼の築いた国宝・姫路城で知られますが、その後は本多家、榊原家、松平家と大名が頻繁に交代して安定せず、その都度転封の費用を捻出するための重税が掛けられていました。

寛延元年(1748)には松平明矩が姫路藩主でしたが、このとき9代将軍・徳川家重の襲封を祝賀する朝鮮通信使が来日することになり、藩主・明矩が接待役を命じられたため、その費用の捻出を理由として領内に臨時の御用金を課し、百姓の負担は増大していました。

その上に台風の被害による凶作が重なり、飾東郡内の百姓3千人が集結して年貢減免を要求する一揆が起こりますが、その最中の11月に藩主・松平明矩が死去、幼少の嫡男・松平朝矩が家督を継ぐものの、西国の要衝の地を幼君に委ねることは不適切で、またも転封が確実視される情勢となります。

この一揆の動きを組織化したのが播磨国飾磨郡古知ノ庄滑(なめら)(今の兵庫県姫路市)の百姓・甚兵衛で、塩田の利兵衛、又坂の与次右衛門らとともに、翌寛延2年(1749)1月28日に蜂起、飾西郡前之庄の大庄屋・北八兵衛の屋敷を打ちこわしたのをきっかけに、他郡の百姓も加えて1万人規模の全藩一揆へと拡大し、庄屋や御用商人などの屋敷60軒あまりを打ち壊しながら姫路城下まで迫ります(姫路藩寛延一揆、播磨寛延一揆)。

姫路藩では寡勢のために藩兵による鎮圧ができず、本徳寺(船場御坊)の僧侶に説得を依頼し、大坂町奉行からも出張してようやく鎮圧されますが、その後は345人が捕らえられ、1年がかりの大坂町奉行による取り調べの末、滑甚兵衛が磔、塩田利兵衛、又坂与次右右衛門が獄門となり、そのほかにも死罪、遠島、追放、過料などの刑罰を受けた者が多数に上りました。

滑甚兵衛は姫路に送り返され、寛延3年(1750)9月23日に市川河原で処刑され、他に大阪で既に処刑された百姓とともに、その首が河原に晒されました。

滑甚兵衛の墓はしばらくは造立することもできませんでしたが、三十三回忌にあたる安永10年(1781)になって、一字一石経を埋めた経塚(浄土三部妙典塚)が供養のために密かに営まれ、その後昭和29年(1954)には、法恩寺住職によって地元の3人の義民を祀る「置塩神社」が創建されました。

置塩神社へのアクセス

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名称

置塩神社 [参考リンク]

場所

兵庫県姫路市夢前町古知之庄地内
(この地図の緯度・経度:34.9446166, 134.6851376)

備考

「置塩神社」(寛延義民社)は、夢前川沿いを走る県道67号の「塩田」交差点の南200メートルほど、「塩田温泉」の看板近くにあります。鳥居の脇と道路挟んで反対側に駐車場があり、参道の石段には多数の灯篭が奉納されています。法恩寺前から延びる舗装済の車道も使えます。


「浄土三部妙典塚」(義民滑の甚兵衛塚)([地図])は、「置塩神社」から県道を北に500メートルほど進むと右手に見える、ヒメジ理化株式会社社員専用駐車場に隣接した断崖上の竹藪の中にあります。竹藪の一部が伐り払われているので遠くからも見ることができ、付近のヤマト運輸神飾センター隣の株式会社黒岩夢前第一営業所角の道路敷に「史跡義民滑の甚兵衛塚」の標柱が建てられています。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
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中国地方 滑甚兵衛 播磨寛延一揆